ごん狐はなぜ撃ち殺されたのか
著 畑中章宏
晶文社
1785円
「山月記」はなぜ国民教材となったのか
著 佐野幹
大修館書店
2310円
富士山
編 千野帽子
角川文庫
700円
『ごん狐』といえば、今年で生誕百年を迎えた童話作家の新美南吉の代表作として知られる。だが、その舞台が彼の郷里、愛知県知多半島だと即答できる人は案外少ないかもしれない。同作に登場するのは、日本のどこにでもありそうな村だからだ。
ただし『ごん狐』の草稿では、南吉の地元の方言が使われるなど、地域性も反映されていたという。じつは私たちがいま読んでいる『ごん狐』は、その掲載誌『赤い鳥』の主宰者・鈴木三重吉が、方言を標準語に変えたりと手を加えたものなのだ。
畑中章宏『ごん狐はなぜ撃ち殺されたのか』は、そんな事実を踏まえつつ、民俗学の視点から南吉作品をとらえ直す。知多半島が昔から交通の要所で、様々な人の流れがあったことなど、地元民の私も知らなかった。南吉はそこで移動する人たちに強い関心を抱き、作品で描いたりもしている。
『ごん狐』が小学校の国語教科書の定番なら、中島敦の『山月記』は高校の教科書の定番だ。私も授業で読まされたが、正直いい印象はない。その原因は作品ではなく、教え方にあったのではないか。佐野幹『「山月記」はなぜ国民教材となったのか』を読んで、そう思い至った。
ここ50年ほど使われてきた教師向けの指導書には、同作の読解を通じて生徒に“好き勝手やっていると悲惨な目にあう”と気づかせようという意図すらうかがえるらしい。私もそれを説教がましく感じたのだろう。
千野帽子編『富士山』は富士山に関する文学作品を、太宰治から森見登美彦まで幅広く収録する。とくに丸谷才一の評論『三四郎と東京と富士山』が面白い。夏目漱石『三四郎』の作中、主人公の三四郎は富士山にたびたび言及しつつも、彼が東京で富士山を見る場面はついに出てこない。それはなぜか? 丸谷は該博な知識を駆使してこの謎を解く。こんなふうに名作をユニークに読み解く評論が、授業でもとりあげられたらいいのに!
近藤正高
ライター。愛知県在住。ウェブサイト『cakes』にて物故者を振り返るコラム『一故人』を連載中。
※本記事は週刊アスキー12/24・31合併号(12月10日発売)の記事を転載したものです。
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