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価値観が揺らぎ、世界が大きく動くときだから響く、井深大氏のことば

2022年08月30日 09時45分更新

銀座ネッスル(熱する)商会

 しかし、失敗がなかったわけではない。

東京通信工業の設立前に井深氏が設立した東京通信研究所時代には、電気炊飯器の開発に着手した。しかし、完成したのは木のおひつにアルミ電極を張り合わせた簡単な構造のもので、うまく炊けるほうがまれだった。これは発売されることなく終了。失敗作第1号となった。

 また、井深氏は、東京通信工業設立後に、電気ざぶとんを開発し、実際に売り出したが、二枚の美濃紙の間に細いニクロム線を格子状に入れて糊付けし、レーザークロスで覆っただけのものであり、サーモスタットもついていなかった。大量に売れたのだが、大切な毛布を焦がした、ふとんに焦げ跡ができたという苦情も多く、火事の危険性も指摘されるような状況だった。

 友人の一人は、井深氏から電気ざぶとんをプレゼントされたが、帰りぎわにそれを折りたたんでカバンに入れようとした途端、井深氏から「折って入れては駄目だ」と待ったがかかった。それを聞いた友人はやっかいなものをもらったと思い、そのまま使うことはなかったという逸話もある。

 こうした状況になることは、どうも井深氏も事前に察知していたようで、この電気ざぶとんは、東京通信工業の名称は使わず、「銀座ネッスル(熱する)商会」の名称で販売していた。これもソニーの隠れた失敗作だといえる。

クロマトロンからトリニトロンへ

 失敗を成功に変えた事例もある。それは1964年に発表したソニー独自のカラーテレビ「クロマトロン」だ。発表したものの、製造コストが高く、故障も多いため、量産に踏み切れない状況が続いていたのだ。試行錯誤を繰り返しても、胸を張れるような解決策は生まれず、研究費は増えていくばかりだった。クロマトロンを作れば作るほど、損失が大きくなり、これ以上開発費をつぎ込んでいったら、ソニーは、クロマトロンと心中することにもなりかねない状況に陥り、強気で鳴らした井深氏も、クロマトロンについては、弱音を吐くほどに追い込まれていた。

 井深氏は、「こんな事態になったのは、社長である私の責任だ」としながらも、自らが技術者であるという強い意地をみせ、落ち込んでいる技術者たちの支えになるために、「クロマトロンに代わる方式を探ってみよう。今度は自分自身が開発リーダーとして最初から最後まで立ち合う」と宣言し、新たな技術の開発に取り組んでいった。

 その結果、完成したのがトリニトロンである。その後のソニーのテレビ事業を支える基幹技術の誕生であった。

 1967年10月、ようやく1台の試作機が完成した。駆け付けた井深氏は、技術者に激励の言葉をかけたいと思っていたが、それまでの苦労を知る井深氏は「皆さん、ご苦労さんでした」という言葉をかけるのが精一杯だったという。

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