戦中の話だが、必要以上の暗さはない
中心になっているのは戦中の話なので、普通に考えれば決して明るいものにはならないはずだ。しかし、ここに必要以上の暗さはない。たとえば冒頭部分に登場する戦時中の記憶に、そうしたニュアンスがよく表れている。
戦争中の東京の冬は、いまよりもずっと寒かったと思う。
「寒いし、眠いし、おなかがすいた」
トモエ学園の行き帰り、トットたちはみんなでそう言いながら歩いていた。簡単な曲をつけて、自分たちのテーマソングみたいに歌うこともあった。(36ページより)
「それはもう空腹に苦しめられた」というが、そんな状況下でもたくましく生きる姿が思い浮かぶ。そして読み進めていけば、子どものすることをすべて受け入れるだけでなく、自身に降りかかる苦難をも前向きに乗り越えていく両親(とくに母親)の気丈さが、トットの人格形成に大きく役立ったのだということがよくわかる。
たとえば疎開先の尻内(現在の八戸)に疎開し、やっとの思いでリンゴ農家の作業小屋を借りたときのことだ。八畳くらいの広さで、屋根は藁葺き、板張りの壁は隙間だらけで、明かりは石油ランプのみ。どう考えても恵まれた環境ではないが、母は「窓からも天井からも、太陽の光が射してくるなんて素敵ね」とうれしそうにしていたという。
そのときトットは「『ものは考えよう』とはこういうことをいうのか」と感心したそうだが、これこそが真の教育なのではないだろうか? 親が悲しんでいれば子どもも悲しくなるが、楽しそうにしていれば、そこから楽しく生きる術を学ぶことができるのだから。
リンゴ箱を逆さにしたかと思うと、その上に綿や藁を敷きつめ、荷物をまとめるとふろしき代わりに使ったゴブラン織りの布をかぶせ、上から釘を打った。箱のまわりに余り布をフリルみたいにして垂らすと、ロココ調のおしゃれな椅子のできあがり。
近所の人から分けてもらったシーツは、絵の具でうすいグリーンに塗った。そこにリンゴの絵をたくさん描いて壁に飾ると、立派なタペストリーになった。一メートルぐらい高くなっている床は、子ども用のベッドに変身した。殺風景だったリンゴ小屋が、北千束の家みたいな雰囲気に生まれ変わった。(87ページより)
なんだかジブリのアニメに出てきそうな光景で、これだけでもいかに母親が素敵な方だったかが想像できる。しかも彼女はこのあと食堂を始めるなどして、出征中の夫に代わって家族を見事に守り通していく。だからトットも、東北の環境に順応しながらすくすくと育っていくのだった。
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