週刊アスキー

  • Facebookアイコン
  • Twitterアイコン
  • RSSフィード

【連載】ラー博の何故? 第3話~ 何故?昭和33年の街並みなのか?

2021年06月15日 10時00分更新

 みなさんこんにちは。

 先日、LOVE横浜#8の生放送に参加させていただきました。貴重な機会をいただきありがとうございます。

 お時間ある時に、ぜひご覧くださいませ→https://youtu.be/80IcUBZv9q0

 連載の前に、また少しだけトピックスをお話させていただきます。

 今年1月に開催予定でした「幸運ラーメン2021」が、緊急事態宣言発令により延期となっていたのですが、6月22日(火)より振替開催することとなりました。

 この企画は「幸運食材」を使用した限定創作ラーメンを食べて、少しでも心と気持ちがポジティブになってほしいという想いから誕生しました! お見逃しなく!
https://www.raumen.co.jp/information/news_001149.html

 この連載は「ラー博の何故?」と題して、これまで多くの方々からご質問をいただく何故についてお話をさせていただいております。初めて読まれる方はバックナンバーの順に読んでいただけるとわかりやすいかと思います。

第1話 何故新横浜に作ったのか?

第2話 どのような経緯でラーメン博物館を作ったのか?

 そして第3話の今回は、「何故? 昭和33年の街並みなのか?」についてお話させていただきます。

 今でこそ昭和30年代の街並みというのはいろんな施設や映画等で再現されていますが、手前味噌の話ではありますが、オープン当初このような街並みを再現するというビジネスはありませんでした。

 創業者の岩岡曰く「当時、新横浜はオフィスビル街で、仕事で行き詰まった人たちがホッとできる空間がありませんでした。私の中の原風景は夕焼け雲の空の下、カラスがカァ~カァ~鳴いている。そして遠くからチャルメラの音色がおなかに響く。そんな“あの頃の”遠い記憶。あたりが薄暗くなり、街頭が一つ二つ点き始めるまで遊んだ“あの頃”の温かさを空間として表現したかったのです」

 私たちが全国を歩いて捜し求めた銘店のラーメンをおいしく食べてもらえる環境という点でも空間が重要でした。

 では何故昭和30年なのか? 岩岡が生まれたのは昭和34(1959)年で、幼少期の原風景が原点ではありますが、街づくりのヒントはラーメンのエポックメイキングともいえる「インスタントラーメンの誕生」にありました。

 “夕焼け=懐かしい風景”という漠然とした連想はあったものの、具体的にそれがいつの時代かは特定できませんでした。しかし、高度成長時代戦後第三の主食とまで言われたインスタントラーメンの誕生の年なら、ラーメンのおいしい夕焼けの街を設定するにはピッタリではないか? そんな興味を持って昭和33年をひもとくと、この年は社会的にも実に素敵な話題の多い1年でした。東京タワーの完成や一万円札の発行、皇太子妃の決定、スポーツ界では長嶋茂雄さんのデビュー、王貞治さんの入団など、庶民生活にとって多分に明るい話題の多い年であり、出来事を一つ一つ取り上げてみると、これものちに影響を与えるようなエポックメイキングなものが多い年でした。

 もう一つは、この時代のすばらしさを現代の人に知っていただきたいという想いです。

 当時は高度経済成長の時代の中、人々は決して裕福ではありませんでしたが、お互い助け合いながら夢に向かって頑張っていました。今の時代はその逆で暮らす事への不自由はそれほどありませんが、人間関係が希薄になり、夢を持っていない人が増えたように感じます。あの時代の魂は、経済成長と共に日本人が置き忘れてしまったのかもしれません。

 街の再現にどのくらい費用がかかったの?というご質問も多くいただきます。結果的に内装だけで10億円という費用がかかったのですが、当初はここまでお金をかけるつもりはありませんでした。しかしこだわっていくとお金がかかってしまいました。例えばNHKの放送受信章や当時の電気メーターなどは現物を一つ手に入れて、新たに型を作り量産しました。当時のものが中々残っていなくて、写真などを手掛かりに作ったものが多いです。地下には77軒の家屋を再現しておりますが、1軒1軒のファサードは岩岡の承認印なくして進めることができないようにして徹底的にこだわりました。

 何故地下に作ったのかというご質問も多くいただきますが、答えはシンプルで、過去にタイムスリップするのは上ではなく下だと思ったのと、地上だと窓などから現代の風景が見えるのがタイムスリップ感を損なうと思ったからです。しかし地下に作るというのは、地上に作るよりも2倍お金がかかります。

 もう一つのポイントが、昭和33年の街にいかにして生命を吹き込むかという点です。先ほどご説明したように77軒の家屋を再現したのですが、まずは住人台帳を作りました。この街に住む架空の人々の氏名、生年月日、家族構成、職業、趣味などを決め、氏名は昭和30年代に活躍した人命を盛り込みました。例えば「純喫茶ライオン」は昭和31年~33年に日本シリーズ3連覇した西鉄ライオンズから、「からたち洋装店」は昭和33年のヒット曲「からたち日記(島倉千代子)」から、町内会長の一万田直人は、昭和33年に発行された一万円札にちなんで名付けました。このような住人台帳をもとに、洗濯物やディスプレーなどを事細かに決めていきました。誰も関心がないかもしれませんが、そういった視点で街を探索するとおもしろいですよ。

住人台帳

住民

 来館される方の多くが、この当時に生まれていない人ですが、皆さんが懐かしいと感じます。

 創業当時は1994(平成6)年ですから、1958(昭和33)年は36年前です。現在2021年から見ると63年前となります。これは期待どおりの過去を作り上げたからです。どういうことかと申しますと、この当時新築の家もあっただろうし、洋風の家もあったと思います。しかし、この街の建物はどれも古びていて、塗装がはげていたりします。これはこうだったんだろうという期待どおりの過去を演出したのです。すべての建物をエイジングという技法で汚し、本物らしさを誇張したのです。

 あれから27年経ちますが、今でも昭和33年の街並みはみんなの魂が宿った、かけがえのない空間です。主役はラーメンですが、この街があったからこそ、今でも商売を続けられているのだと思っております。

 新横浜ラーメン博物館公式HP
 https://www.raumen.co.jp/

 ・Twitter:https://twitter.com/ramenmuseum
 ・Instagram:https://www.instagram.com/ramenmuseum/
 ・Facebook:https://www.facebook.com/raumenmuseum
 ・LINE:https://lin.ee/k9AJTKt
 ・YouTube:https://www.youtube.com/rahakutv

文/中野正博

プロフィール
1974年生まれ。海外留学をきっかけに日本の食文化を海外に発信する仕事に就きたいと思い、1998年に新横浜ラーメン博物館に入社。日本の食文化としてのラーメンを世界に広げるべく、将来の夢は五大陸にラーメン博物館を立ち上げること。

この記事をシェアしよう

週刊アスキーの最新情報を購読しよう

この連載の記事