■YMOと同じ音源を家庭でも(10万円くらいで)
ヤマハといえば何を思い浮かべますか? バイク? 楽器? いやいやMSXユーザーたるもの「ヤマハはLSI開発メーカーだ」とか言って周囲をドン引きさせなきゃですよ。今回はヤマハのMSXへの取り組みを通してMSX発展の歴史の秘密に迫ります。さて、言うまでもなくヤマハはMSX本体も販売しておりました。なかでも中軸になるYISシリーズはMSXの初期の頃より独特の存在感を放っていました。その大きな理由はサイドスロットと呼ばれる、普通のMSXカートリッジよりもちょっと大き目のカートリッジを挿して機能拡張することができることにあります。
↑写真左:代表的な機種である『YIS604/128』はその名の通り大容量RAM128KBのMSX2。これにFDDを拡張しアプリソフトをカートリッジスロットに挿している。見えないけど左側面にFMシンセサイザーユニット『SFG-05』が挿さっている。写真右:MSXに本格的なFM音源を拡張する『SFG-05』。(写真は、MSXマガジン'86年9月号より) |
※FM音源とは人工的に音色を合成することができる音源チップのこと。最近ではひと昔前の携帯電話の着メロなんかに採用されていたのできっと聞き覚えがあるはず。
SFGシリーズは当時としてはMSXにはオーバースペックとも言える豪華(4オペ8音ですぞ)なFM音源ユニットでした。MSX2が登場して扱えるRAMが豊富になり10万円を下回るFDDユニットが出たことで、ようやくちょっと本格的な音楽制作に対応できるようになりました。16ビットPCを中心に構成するよりもずっとずっと安価にシステムを組めることができるようになったわけで、『DX7』(これも30週年!)や『RX15』などヤマハのシンセサイザーの名機たちをMSXに接続してYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)のようにカッコ良く演奏するなんて姿にMSX少年たちは憧れと羨望の眼差しをワクワクしながら向けたものでした。
ヤマハYISシリーズは他のMSX同様に家電量販店などを中心に販売されていましたが、実は他にCXシリーズというのもありました。これはカラーリングをDX7などのシンセサイザー群に揃えて楽器店を中心に販売されていました。そう、ヤマハCXはまさに楽器の一種として位置づけられていたのです。特に『CX7M/128』などは最初からFM音源ユニットSFG-05を標準で搭載し実売価格も10万円前後(定価12万8000円)という破格のシンセコンピューターでした。これまでのシンセは小さな液晶画面で1行かせいぜい数行しか表示できませんでしたがMSXなら、安いのにテレビモニターに表示できました。ヤマハはMSXをもって楽器店にコンピューターミュージックの新風を吹かせたのです。
↑写真左:スペック的にはYIS604/128とほぼ同様ですが、ビルトインプログラムソケットと呼ばれるスロットにバンドルされるソフトに違いがありました。青緑のCXロゴは、初音ミクのカラーにも影響を与えたと言われるDX7の仲間だから。写真右:MSXにDX7やRX15を接続している。よく見るとMSXがキヤノンのV20です。ヤマハは他社のMSXのためにカートリッジの変換ケーブルを用意していたのです。偉い!(写真は、MSXマガジン'86年9月号(左)、'85年9月号(右)より)(※2013/7/23 16:30 修正。キヤノンのヤの字が小さくなっていたため、修正しました。) |
さて、ここからは少しだけマニアックな話になりますが、最後までついてくると驚きの結末が待っていますよ。冒頭で述べたようにヤマハはLSIの開発メーカーでもあります。MSX系のLSIといえば連載3回目で東芝のMSX-ENGINEを紹介しましたが、ヤマハの音楽系以外のMSX向けLSIといえば以下があります。
・MSX-SYSTEM(S3527,S1985)
・MSX-VIDEO(V9938,V9958)
・S1990
MSX-SYSTEMとその発展系であるS1990についてはまたの機会にゆずりたいと思います。S1990を使用したMSXturboRは、いわばヤマハのMSX-SYSTEMと東芝のMSX-ENGINEの両方を搭載したMSX系LSI技術の集大成とも言える機体だった、ということだけ押さえて次にいきます。
■MSXはなぜゲーム機じゃないのか? その壮大な野望!
ファミコンやスーファミに対して表現力が劣るとか言ってMSXをバカにしていたそこのアナタ、そこに隠された思想を知っていまこそ驚きなされ!(もう手遅れだ)
MSXの生みの親である西和彦氏はMSX規格に採用されたVDP(画像表示用プロセッサー)である『TMS9918A』の表現力に強い不満を持っていました。もっと表現力を高めなければ、家庭でテレビやビデオに代わってMSXが(組み込み用としても)使われることはありませんし、小規模のホームビジネスにも使えないでしょう。ですからMSX2においてはグラフィック能力の向上が必須課題となります。問題は、どの方向に機能を向上させるかです。選択肢は2つありました。MSXの当初の思想通りに“ホームコンピューター”として進化を遂げていくか、あるいは、爆発的に普及していたファミコンへの対抗策として“ゲーム機”に寄せた強化を行なうかです。
この選択についてアスキーは当時MSXマガジンで「ゲーム機としてではなく、あくまでホームコンピュータとしての進化を取った」と明確に語っています。そしてヤマハとの共同開発によりTMS9918Aとの互換性を保ちつつ、新たなVDPの開発をスタートしました。目標は“8ビットコンピューター最高の表現力”、そして“テレビとの親和性”でした。このホームコンピュータとしての思想は、連載第6回でもすこし取り上げた“キャプテンシステム”との親和性が高く、MSX2のハードウェア仕様はキャプテンシステムの仕様を包含する形で決定されたようです。
その結果として採用されたのが、SCREEN7モードにおける最大512×424ドットの解像度(インターレース使用時)と、512色中16色の同時発色。SCREEN8モードにおける256色同時発色。そして、SCREEN0モードにおける横80桁の表示でした。さらに、テレビ画像にMSXの画面を重ねて表示するスーパーインポーズ機能、テレビ画面をタッチすることで入力できるライトペンインターフェース、そしてテレビ画面をコンピューター側に取り込むデジタイザとしての機能もあわせて取り入れたのです。
↑スーパーインポーズ機能を応用した、ビデオテロッパ『FS-UV1』。MSX本体の横サイズいっぱいのユニットをカートリッジスロットに挿して使用。中にはV9938が入っている。(写真は、MSXマガジン'87年6月号より) |
とくに256色という同時発色数に関しては、後に富士通から『FM77AV』が発売されるまでは、家庭用コンピューターとして最大級の発色数でした。また、当時としては珍しい“透明色”の概念を導入したことも特徴で、いまで言う“レイヤー”による重ね合わせ的なテクニックをBASICレベルから簡単に扱えるようになっていました。
また、CPUを介さず直接VDPを操作することで高速に画面の書き換えを行える“VDPコマンド”の搭載は、MSXにおける画像処理に大きな変化をもたらしたと言えるでしょう。しかし、スプライトに関してはユーザーの期待とは裏腹に小改良にとどまりました。
これらの特徴を簡単にまとめると「主にゲームに使用されていたスプライトなどの機能より、ビットマップグラフィックを効率よく表示することを優先した」と言えます。この思想に従って、MSX2に採用されたVDPである“MSX-VIDEO”こと『V9938』は設計されたのです。
■MSX2+に採用された『V9958』の先進性と不遇
MSX2+規格に採用された『V9958』は、V9938における設計思想をさらに押し進めたものとなっています。すなわち「ビットマップグラフィックを効率よく表示する」という機能を最優先し、スプライトに関しては一切変更が行なわれなかったのです。V9958はV9938の機能をほぼ包含したうえで、新機能“YJKモード”を採用。ハードウェアによる画像圧縮技術を導入します。V9938のSCREEN8モードで256色を発色させるのには、VRAMが128Kバイト必要でしたが、V9958のSCREEN12モードでは、圧縮により、同じ128KBで1万9268色(!)を発色させることができました。
なぜこのスクリーンモードはV9958に搭載されたのでしょう。現時点では推測の域を越えませんが、この時期にアスキーはNTTと共同で“CDにデジタル動画を収録する技術”の開発を行なっており、将来への布石としての意味合いを込めていたのではと思われます。また、アスキーはMSXにCD-ROMを搭載させた試作機も発表しており、これらの技術の応用として動画コンテンツの再生を検討していたのではないかと思われます。
↑CD-ROMドライブ搭載MSX試作機。(写真は、MSXマガジン'87年11月号より) CD-ROMドライブ搭載MSX試作機は'85年くらいから、複数のメーカーよりポチポチ発表されていました。こちらはソニーのもの。(※2013/7/23 16:30←キャプションに一文追記) |
この研究は、後に“MPEG-1”として国際規格となり、ビデオCDなどに採用されました。が、MSXマガジン'92年夏号において、西和彦氏は「ビデオCDはまだまだで、CDサイズで2時間の映画が見えるようになる必要がある」とコメントしています。すなわち、これは後のDVDやブルーレイの登場を示唆していたのです。
↑“未来のコンピューターはこうなる!?”と題した、西和彦氏インタビュー記事。「MSXをもっと安くしたい」など、まだまだMSXでいく気まんまんだ。また、DVDの登場も予見。MSXマガジン休刊後のムック'92年夏号より。 |
しかし結局、次世代MSXのようなものがDVDやHDDビデオなどに使われる流れは起こりませんでした。パチンコ基板などには多少使われることがあったようですが、残念ながらMSXはハイビジョンへと続く家庭用双方向デジタルテレビ&ビデオの主流に組み込まれていくことはなかったのです。
■もしMSXがゲーム機寄りの未来を歩んでいたら?
もしMSXがゲーム機としての機能強化に舵を切っていたらどうなっていたのでしょうか。歴史にifはありませんが、そのヒントは、なんとセガのゲーム機の流れの中に垣間見ることができます。
1983年、セガはMSXと仕様がかなり近いゲームパソコン『SC-3000』と、ゲーム機に特化した『SG-1000』を発売しました。
しかしこれらもファミコンを始めとする当時の機種乱立状態に巻き込まれ苦戦していました。少々憶測が入りますが、ここでセガはヤマハと共同で新たなVDPを開発したと思われます。それを採用したのが1985年に発売された『セガ・マークⅢ』なのです。
打倒ファミコンを意図して開発されたこのVDPは、ファミコンの表現能力を凌駕しており、1ドットごとに多色で表現できるスプライト、スムーズな上下左右のスクロールと、当時のMSXユーザーが欲していた機能を有していました。こちらのVDPがMSX2規格に採用されていれば、あるいはMSXの歴史は大きく変わっていたのかもしれません。
そしてこの後、ヤマハとのゲーム用途に特化したVDP開発の流れは、そのまま『メガドライブ』から『セガサターン』へと進化していきます。
プレイステーションの開発に関わった東芝とは実に対照的ですね。こうして、MSXの中核技術開発に大きく深く携わった2つのメーカーは、ゲーム機の開発へと舞台を変えて争うこととなったのです。
栄枯盛衰の激しいゲーム機業界ではありますが、今回の結論としては「ゲーム機の歴史とは半導体の歴史であり、その礎を作ったのは実はMSXであった」という感じでしょうか。とまぁご都合主義的MSX史観を披露したところで、今宵のお楽しみはここまでといたしましょう。ではまた来週お会いしませう。
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おたよりコーナー! パフパフ♪
@badgirl_2ndさん
LINKSが終了したのは1994年10月のこと←そんとき生まれた子供はもう大学生だ…
──そう、1994年は平成6年、今年は平成25年ですので、19歳くらいになっています。弊社にも新卒で平成生まれの子たちが入ってくるようになりました。歳をとるはずだ……。
@mireiさん
キャプテンシステム、図書館や市役所にあったっけ
@akayamanさん
キャプテンシステムは伊奈町の埼玉県県民活動総合センターで触ったなあ。何ができるのか、よく分からなかった。
@m_atonoさん
キャプテンはNTTショールームで遊ばせて頂いたな。オホーツクに消ゆしかやること無かったけど
@yo4daさん
キャプテンシステム版オホーツクに消ゆを西銀座デパートにあった日立のショウルームで遊んでました
──このほか、何人かのかたがキャプテンシステムについての思い出を寄せてくださいました。結構、公共の場に置かれていたようで、(おそらく)子供のころに触ったことを覚えていらっしゃるようです。さすがに自宅にあったという人は稀ですかね?
それでは、またTwitterで思い出話など教えてください。このコーナーで採用させていただくかも!
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