本田宗一郎の想いを受け継ぐ新たな世代が躍動した時代
【2階北棟 -1970年前後~1985年前後-】
続いて、本田宗一郎さんと藤澤武夫さんが退任した1973年や、第2期Honda F1などが展示されているエリアを見てみましょう。
入ってすぐのところに展示されているのは、1981年に誕生した「Honda Electro Gyrocator」。世界初の地図型自動車用ナビゲーションシステムです。ブラウン管画面にセットした透過型の地図シートに、自社の位置を映すという仕組みとのこと。車両の位置検出は走行距離センサーとジャイロセンサーを組み合わせたものだったそうです。
本田宗一郎さんは「水冷エンジンも水を空気で冷やすのだから、初めから空気で冷やす空冷エンジンの方がいいハズ」という考えをお持ちでした。F1も乗用車も空冷エンジンにこだわり、DDAC(デュオ・ダイナ・エア・クーリングシステム=一体式二重空冷)と呼ばれる、凝りに凝ったエンジンを作り出します。
水まわりのメインテナンスが不要でトラブルフリーという空冷の美点はそのままに、エンジンが二重壁を持つゆえ騒音は水冷並みに抑えられたのですが、複雑な構造ゆえに大きく重くなり、コストも上昇。シンプルで軽量、低コストが特徴の空冷とは正反対のエンジンになり、商業的にも失敗してしまいました。
ホンダが水冷に方向転換をするきっかけが、N360の後継として1971年に誕生した軽自動車のライフでした。水冷直列2気筒の346ccエンジンは30PSを発生。この開発が次のシビックにつながっていきます。
1970年。米国で排気ガス規制法案「マスキー法」が施行され、法規制をクリアしないクルマは米国で販売できなくなりました。その内容は厳しいもので、どのメーカーもクリアしていないものでした。Hondaは低公害エンジンCVCCを開発し、世界に先駆けてクリア。技術力の高さを世界に誇示したのでした。
Hondaの四輪は大成功をおさめ、80年代に魅力的な車種を続々と世に送り出します。それまでのクルマにはない、若い発想で誕生したCITYやプレリュードは一斉を風靡。CR-Xも大ヒットしました。
1974年のライフ生産終了後、Hondaは11年ほど軽自動車事業を休止していました。1985年に登場したトゥデイは愛らしいデザインと、M・M思想(人のためのスペースは最大に、メカニズムのためのスペースは最小に)に基づいた優れた居住性で大ヒット作になりました。今井美樹さんが出演するCMを覚えていらっしゃる方も多いのではないでしょうか。
バイクに目を向けると、この時代のHondaはさらなる飛躍と挑戦の時代でした。1979年から世界選手権(以下、WGP)へのレース参戦を再開。当時の500ccクラスでは2ストロークエンジンが主流でしたが、Hondaはあえて4ストロークエンジンで勝利を目指します。
そこで考えついたのが、楕円ピストンに8バルブという革新的な4ストローク4気筒エンジンでした。結果を残すことはできませんでしたが、この技術は後の名車を生み出します。
どうしてもWGPで勝利を納めたいHondaは、1982年に2ストローク V型3気筒のNS500を投入。82年最終戦で初優勝、83年はシリーズチャンピオンに輝きます。84年からは2ストローク V型4気筒のNSR500を投入。フレディ・スペンサーが圧倒的な速さをみせつけたのでした。
戦いのステージはオフロードにも。トライアルバイクのほか、パリ・ダカールラリーへも挑み4連覇を達成。多くの方にオフロードの魅力を伝えました。
市販車では世界初のオーバー100PS、世界初のオーバー200km/h、そして世界初の空冷6気筒スーパースポーツバイク「CBX」を販売。Xは究極という意味だったそうで、まさに究極のCBでした。
2階と3階の中央エリアでは、そんなCBの歴史がわかる企画展(ガレージコレクション)が行なわれていました。初めてCBの名がついた「ベンリイCB92スーパースポーツ」、海外での大型車市場開拓を目指し開発した「ドリームCB450」のほか、国内外のライバルも多数展示。
ガレージコレクションは定期的に内容を変えるとのことで、7月からはレーサーレプリカ特集としてNSR250Rをフィーチャーするとのこと。コレクションホールが所蔵するNS、NSRシリーズをすべて展示するというので、大変楽しみです!
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