電子版週刊アスキーにて好評連載中の「仮想報道」よりバックナンバーをピックアップしてお届けします。Twitterの字数制限は本当に必要なのでしょうか。前回「Twitterをつくったのは誰だった?:仮想報道」の続きです。※一部内容は連載当時のままです。
Vol.834 ツイッターの字数制限はほんとうにあったほうがいいのか?
(週刊アスキー2014/7/29号 No.988より)
ジョブズの再来か? それとも物まねか?
ツイッターを当たり前のように使っている人は多いだろうが、そもそもなぜ140字の字数制限が必要なのか。
ツイッターがベースにしたショートメールの字数制限から来ているわけだが、ずっとこのままのほうがいいのだろうか。
考案者のジャック・ドーシーがタクシー運転手の配車係との無線でのやりとりを見て思いついたというツイッター誕生のエピソードは、とにもかくにも短い情報発信である理由の説明になっていた。しかし前回書いたように、ドーシーについてきわめて厳しい見方をしているニック・ビルトンの著書『ツイッター創業物語』はこのエピソードを採用していない。最初のアイデアはドーシーが考えたにしても、創業者4人がそれぞれアイデアを出し合って育てていったと見ている。むしろドーシーは他の創業者たちの貢献を無視し、メディアに積極的に露出して自分ひとりの手柄にしようとしているというのがこの本の見方だった。
鼻ピアスをしたプログラマーのドーシーに経営能力がないのはわかっていたが、彼を雇ったエヴァン・ウィリアムズは、ツイッターとは別の事業をしたかったこともあって、ドーシーの成長可能性に期待してCEOにした。しかし、ドーシーはしょっちゅうダウンするツイッターの問題点を改善しようとせず、発言権のない会長に追いやられてしまい、ウィリアムズがCEOになった。
ウィリアムズは会社経営の経験はあったものの、優柔不断な性格だったようだ。決定が遅く、また収益の上がる企業にすることにも不熱心で、取締役たちの反発を買った。返り咲きをねらうドーシーの画策もあって、こんどはウィリアムズが発言権のない取締役に追いやられた。
ドーシーは、スティーブ・ジョブズ・フリークだったようだ。ジョブズは一度は追い出されたものの戻ってきてアップルを蘇らせた。同様に、ドーシーも飼い殺し状態から復活した。ジョブズ気取りでメディアの寵児になり、猿真似の言動をしていると『ツイッター創業物語』は揶揄していた。
ドーシーは「ツイッターの顔」でCEOだと思っている人も多いが、役職としては会長だ。CEOはディック・コストロという人物だ。ウィリアムズの友人で彼が連れてきた。ウィリアムズは、自分が連れてきた人物にCEOの地位をとって代わられた。ビルトンの本のサブタイトルは「金と権力、友情、そして裏切り」だが、ツイッターはまさにそのとおりの遍歴をたどってきたことになる。
↑ニック・ビルトン著『ツイッター創業物語——金と権力、友情、そして裏切り』(日本経済新聞社)。
ツイート呼びかけの言葉が変わるほんとうの理由
話が脱線したが、字数制限をなくしたほうがいいかどうかにはもちろんいろいろな意見があるだろう。しかし、たくさん書きたい人は書けばいいし、そんなにいらない人は短く書けばいい。制約をもうけなければ、それぞれ好きにできる。それではもはやツイッターではないという意見もあるかもしれないが、そのほうがいいという人もまたいるだろう。
イベントのライブ中継なども、140字区切りでは読みにくい。中継する人も140字までにおさめて書くのはたいへんだ。長い文章を書いてから送信したのではライブ感がなくなってしまうというのであれば、たとえば書いた端から送信してストリーム表示することだってできるはずだ。ツイッター社が短い字数にさして問題を感じなかったのは、タクシー運転手の配車係とのやりとりからアイデアを得たという以外の理由もあったように思われる。
ツイッターを誰が作ったのかについてビルトンは、ドーシーの貢献度を限定的に見ているが、やはり彼のDNAは濃厚に埋めこまれている。ツイッターの名前を決めるとき、ドーシーは「ステータス」を推した。
「ステータス」という言葉はフェイスブックでも使われている。自分がどのような状況なのかを指す。フェイスブックの場合ならば、既婚か独身か、恋人がいるのかといった「ステータス」を登録するようになっている。
ドーシーは、ツイッターも自分の状況を知らせるためのツールと見ていた。自分の状況を知らせるだけならそんなに長い字数は必要ない。ツイートを見る友人・知人も、簡潔に状況を知らせてもらったほうがいいだろう。
ツイッターは当初ツイートを入力するウィンドウの上に、「いまどうしてる?」と書かれていた。まさにいまの状況(「ステータス」)を書くように呼びかけていた。「ようやく晩ご飯。お腹すいた」とか「今日も1日疲れた」などと書くようにうながしていたわけだ。
ところが、英語版では「いま何が起きている?」に変わった。個人の行動ではなくて「できごと」を尋ねる問いになった。
こう変わったという話は3年前に本欄でツイッターを取りあげたときに指摘した。利用者が「いまどうしてる?」をやりとりしていたのでオープン当初はそういう呼びかけの言葉にしたものの、この質問を無視して「いま何が起きている?」を書き始めたので変更したと、ツイッター社は説明していた。
ところがこの変更は、利用者の動向にしたがって変えたという以上の意味があったようだ。
ドーシーは、ツイッターを個人のステータスを知らせるツールと見ていたが、エヴァン・ウィリアムズはそうは考えなかった。先の本によれば、彼は周囲で起きていることを伝える手段と見ていた。2008年秋にドーシーが失権し、ウィリアムズがCEOの座に就いて1年後、彼の主張を反映した「いま何が起きている?」に変わった。つまりツイッター社内の権力闘争がこの呼びかけの言葉の変化につながったわけだ。
権力闘争の果てに行きついた言葉
こうした変遷を見てくると、ツイッターはほんとうに140字のままがいいのかという気がしてくる。
先に書いたように、ステータスを知らせるだけなら簡潔なほうがいいだろうが、何が起こっているのかを知らせるのであれば、場合によってはもっと長い字数が必要になる。私はもうツイッターを使っていないのであれこれ言う資格はないが、利用者が好きにできるように字数制限をなくしたほうがいろいろな用途に使えるようになるのではないか。
もっとも、「いま何が起きている?派」のウィリアムズが失権し、「ステータス派」のドーシーが復権したので、字数制限がなくなる可能性はさしあたり少なそうだ。
ところで、ツイートを呼びかける文章はいまどうなっているのだろう。ツイッターにしばらくアクセスしていないので知らなかったが、こうなっていた。
「ツイートする」。
「いま何が起きている?派」とも「ステータス派」とも距離をおいた言葉になっている。なるほど、どちらにも組みしない言葉にしておくのが無難ということなのか。何だかおもしろくはないのだが……。
↑日本語版(写真上)と英語版(同下)のツイートのウィンドウ。「ツイートする(英語ではCompose new Tweet)」に変わった。日本語版は「いまなにしてる?」から「いまどうしてる?」に変わって、さらに「ツイートする」になった。英語版は、"What are you doing?"→"What'shappening?"→"Compose new Tweet"。
Afterword
上に書いたツイートの呼びかけの言葉を見ると、ドーシーはほんとうに「復権」したのかという気もする。彼自身も、モバイル端末につないで簡単にカード決済する「スクエア」という会社の事業に熱心なようだし、『ツイッター創業物語』によれば、社内の信望もあまりないようだし……。
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