浜野製作所 浜野慶一代表 |
投資会社は東京の下町に拠点を構えたほうがよさそうだ。どうも未来のソニーは墨田区から生まれそうな雰囲気がある。
墨田区は東京有数の製造拠点だ。革、ガラス、ウレタンなど素材加工系の町工場も点在している。そんな墨田区・八広に昨年3月、3Dプリンターやレーザーカッターなどデジタル工作機器を設置した施設「ガレージスミダ」(Garage Sumida)が完成した。
利用を申請し、承認されれば誰でも機械が使える。ただぶらっと訪れてものづくりの相談もできる。大手企業の事業開発部門、ベンチャー企業を中心に利用が進み、見学も含めて来場者数は7000人を超えたそうだ。
運営は金属加工工場・浜野製作所。企業の申請を浜野製作所が受け、承認する形で施設を運営している。同拠点をきっかけに、ベンチャー企業オリィ研究所がコミュニケーションロボット「オリヒメ」を開発するなど成果も出てきた。
浜野製作所は、町工場発の深海探査艇「江戸っ子1号」計画を2013年に成功させた会社。同社には、危機に立たされた下町の町工場を救いたいという悲願があった。
ガレージスミダ。3Dプリンターやレーザーカッターを備える |
継ぎたくない、継がせたくない
「新しい仕事をとってこられる環境にならないと(産業が)活性化しない。誰かがどこかで新しい動きを作っていかなければ」
浜野製作所の小林亮氏はそう話す。
墨田区の工場数は1965年をピークに減少の一途をたどってきた。1万軒近くあった工場は2010年時点で1000軒近くまで減ってしまった。大手メーカーの海外移管もあるが、後継者が育たないうちに事業をたたんでしまう工場がほとんどだそうだ。
地方ならまだしも、わざわざ家賃が高い東京で町工場を営んでいくのは不利だ。土地が1億円や2億円で売れるなら、小さな工場を維持するよりマンション経営でもさせたほうが子供たちのためになるのではないか、と考えるのは自然だ。
だが、町工場としてのプライドはある。工場文化が消えるのを指をくわえて見ているわけにはいかない。最近、活気が出てきた製造系スタートアップをなんとか墨田区に取り込み、新たな仕事を作れないか。
そこで考えたのが「モノが作れるベンチャー育成施設」というビジネスモデルだ。
外から見ると普通のガレージ |
DMM.make AKIBAとは連携したい
現在、浜野製作所では育成施設として2社のベンチャーを受け入れている。
「レーザーカッターや溶接機械が置いてあるインキュベーション施設はそうそうない。モノ置き場もあり、思いついたときに加工の依頼が出せるプロがいる。異業種交流、町工場同士をつなぐハブのような役割になれないかと」(小林氏)
ニコンを大口顧客に、「隣もお客さんは同じ親」という工場の多い大田区と違い、墨田区は各社が独自に網を持っている。昔は花王など化粧品大手がいたが、現在はいわば「フリー」の集まりゆえ客も送り合いやすい。
千代田区・秋葉原では昨年11月、IT企業DMM.comが同様に製造系ベンチャーの拠点「DMM.make AKIBA」を設置したが、ライバル視はしていない。むしろ秋葉原生まれの試作品を墨田区の工場群につなげるハブとしてのあり方を模索している。
「DMMさんは数億円の投資をしてもホームランが出ればいいという狙いだと思うが、うちはヒットの積み重ね。どのボールが打てるか試してみたかった」(小林氏)
プロジェクトは30代の小林氏のような若い社員が動かしている。だがそもそもは、同社の浜野慶一代表が学生時代に「誰が継ぐかこんな工場」と感じたのが原体験だった。
ベンチャー企業が開発した試作品も置いてある |
まずいカレーとハンバーグ
1968年に設立された浜野製作所は、自宅と会社を兼ねたごく小さな町工場だった。
従業員は10人もおらず、取引先は4社ほど。孫請け、ひ孫請けの安い仕事だ。1階では工作機械がうなり声をあげていた。2階の事務所の隣、薄いベニヤ板で仕切られた部屋が子供部屋だった。
小学生までは機械や金属部品も遊び道具になっていた。だが中学2年生くらいから、浜野氏は親の仕事が尊敬できなくなった。
生活にはつねに仕事の事情が割り込んできた。夜ごはんの最中も両親は、生活費が足りない、支払いの催促はどうなったと金の話ばかり。飯がまずくて仕方がなかった。
「食卓に大好きなカレーやハンバーグが並んでいても、1分でも1秒でも早く部屋に戻りたかった」
父親も本当はこんな仕事したくないんだ。子供時代の浜野氏はそう感じた。口の下手な父親だ。学歴もなく、他の仕事がないから、仕方なく工場なんてやっているんだ。
高校を卒業して大学に進んだ浜野青年は、ネクタイを締め、スーツを着た。まともな会社員になるんだと誓い、就職活動に精を出していた。工場のことなど眼中になかった。
OB訪問から帰ってきたある夜、浜野氏は父親から初めて「ちょっと飲まないか」と誘われた。うっとうしいと感じながらも、しぶしぶ焼き鳥屋へ飲みに出かけた。
父親の目が輝いていた理由
「俺な、この会社に誇りを持ってるんだ」
父親はカウンター席でそう言った。
小さな街工場だが、誇りを持っている。ビール片手に、つたない言葉で父親は説明を続けた。いぶかしみながらも話を聞いて、ふと顔を上げると、父親の目が見えた。はっとした。いつも鬼瓦のような顔で怒鳴っていた父親の目が、子供のように輝いていた。
「ものづくりは奥が深くて、楽しいんだ」
その言葉を聞いたとき、頭の後ろを思いきり殴られたような思いがした。俺は10年間、一体何を勝手に思い込んでいたんだ。仕事に誇りを持っていなかったのは、何も知らない自分じゃないか。
2ヵ月ほど考えてから、浜野氏は稼業を継ぐことに決めた。父親はうなずき、取引先に丁稚の仕事を手配してくれた。やがて月日が経ち、父親は他界する。浜野氏が浜野製作所の二代目になったのは34歳のことだった。
このシャッターの奥で、一体何が起きている
工場が火災で焼けたり、職人が相次いで引退を迎えたりといくつもの危機を迎えながらも、なんとか経営を軌道に乗せた。
早稲田大学との連携活動や、江戸っ子1号など新しいプロジェクトを進めるうち、大学生も事業に興味を持ち、やがて小林氏のような若い人材が門を叩くようにもなった。
確かに町工場は儲かる仕事ではない。それに地味だ。金型や溶接など、いわゆる基盤技術は技術を習得するにも金と時間が必要になる。ベンチャーが溶接工場を作ろうという話はなかなかないだろう。基本的に減ることはあっても、増える業界・業種ではない。
それでも、と浜野代表は考える。それでもものづくりは面白い。町工場とはワクワクすることが起きる現場に他ならない。
今この世界に必要なのは仕事に誇りを持てる人を増やすこと。いつか父親が自分に教えてくれたように、自分も若い世代に伝えていく義務がある。ガレージスミダも、町工場の誇りを次につなぐ大切なよすがなのだ。
「『このシャッターの奥で一体何が起きているんだろう』と、身を乗り出して見たくなる。そんな業種がものづくりのはずだと今でも信じている。先代の顔に泥を塗るわけにはいかない。この誇り高い仕事を、次の世代に引き継いでいくのが私の責任なんだ」
写真:編集部
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