「本当に好きと思える道を探して進め」
~スタンフォード大学卒業スピーチ~
'05年の6月12日、スティーブ・ジョブズはスタンフォード大学の学位授与式において、卒業生に対するはなむけのスピーチをした。彼自身はスタンフォード大の卒業生ではないが、妻のローリーン・ジョブズの出身校であり、アップルと同じシリコンバレーにメインキャンパスを持つ教育機関としてアップル製品の導入にも熱心な大学ゆえ、自ら運命を切り開いてきた稀代の経営者に白羽の矢を立てたのである。ここでは、その抄訳を通じて、キーノートとは趣の異なる彼自身のストーリーを味わうことにする。
●何かを信じて進むこと
本日は、世界で最も素晴らしい大学のひとつから学位を授与される皆さんとともに、ここにいられることを誇りに思います。実は、大学を出ていない私にとって、これは卒業式に最も近い経験なのです。今日は自分の人生から学んだ3つの話をしようと思います。
最初のストーリーは、点をつなぐということについて。
私はリードカレッジ[*1]を半年でドロップアウトしました。実際に退学するまで、さらに18カ月はそこにとどまっていたのですが、なぜドロップアウトしたのでしょう?
[*1]リードカレッジ――オレゴン州ポートランドにある私立大学。寄宿舎制のエリート校である
私が生まれる前のこと、未婚の大学生だった実の母親は、私を養子に出すことにしたのですが、大卒の夫婦に引き取られることを強く希望しました。実際には労働者階級の両親に引き取られましたが、それは彼らが私を大学に入学させると母に約束したからです。
17年後、私はリードカレッジに入学し、義理の両親は貯金をはたいて、スタンフォードと同じくらい高い学費を払ってくれました。ところが半年もすると、私は自分が何をしたいのか、授業が何の役に立つのかわからなくなり、学校をドロップアウトしたのです。それでうまくいけばと思う一方で、怖い決断でもありましたが、今から振り返れば人生最良の選択でした。
その後も、友達の部屋に寝泊まりして、興味を引く授業に潜り込む生活を続けました。例えば、全米一と思えるカリグラフィー[*2]の授業では、優れたタイポグラフィーの秘密に触れ、美しく伝統的で繊細な芸術性を持ち、科学では解明できないその世界に、私は夢中になりました。そして、当時は何の役に立つかわからなくても、後にMacを開発するときにその知識が生かされたのです。
[*2]カリグラフィー――文字を美しく書く技術のことで、日本で言えば書道に相当する。その体裁を整えるための文字の書体やサイズ、レイアウトなどに関する視覚的なデザインの総称がタイポグラフィー
私がドロップアウトしていなかったら、パーソナルコンピューターは、今のような美しいタイポグラフィーを持たなかったかもしれません。もちろん、先のことを見通して、こうした関係性を見抜くことは不可能です。しかし、10年後に振り返れば、はっきりと点はつながれていたのでした。
だからこそ、将来には点がつながることを信じる気持ちが必要です。勇気でも運命でも、人生でもカルマでも、何かを信じて進むこと。私もそうしてきました。それこそが、自分の人生に大きな違いをもたらしたのです。
●誠実さを失わずに愛せるものを探す
2つ目のストーリーは、愛と敗北について。若くして、人生をかけて愛せるものを見つけた私はラッキーでした。20歳のときに両親の家のガレージでウォズ[*3]と始めたアップルは、10年間で4000人の従業員を抱える20億ドル企業に成長したのです。ところが、会心作のMacをリリースした翌年、ちょうど30歳になった私は会社をクビになりました。
[*3]ウォズ──アップルの共同設立者で、Apple IとIIの設計者でもあったスティーブ・ウォズニアックの愛称
なぜ、自分の会社をクビに? それは、会社が大きくなり、共同経営者として雇い入れた才能ある人間とビジョンの食い違いが生まれて、仲たがいをしたのです。取締役会が彼を支持したため、私は公然と追い出されてしまいました。人生をかけたものが失われて、私は茫然自失の状態でした。
数カ月は何をしていいのかわからず、起業家の歴史を汚したとすら思いました。デビッド・パッカードとボブ・ノイス[*4]に会って、自分の失態を謝ろうとさえしたのです。シリコンバレーを去ることすら考えたとき、私は依然として自分のしてきたことを愛していると気づきました。そして、もう一度やり直そうと思ったのです。
[*4]デビッド・パッカードとボブ・ノイス── デビッド・ パッカードは米ヒューレット・パッカード社の共同設立者。ボブ・ノイスはICチップの発明者のひとりで、米フェアチャイルド・セミコンダクター社と米インテル社の共同設立者
そのときには気づきませんでしたが、アップルをクビになったことは、人生最良の出来事だったと言えます。私は自由の身になり、生涯で最もクリエイティブな時間を過ごしました。
その後の5年間で、私はネクストとピクサーを起業し、ローリーンという素晴らしい女性と出会って結婚しました。「トイ・ストーリー」を制作したピクサーは世界で最も成功したアニメーションスタジオとなり、アップルはネクストを買収して私も古巣に戻り、ネクスト時代の技術がアップル復活の原動力となっています。
アップルをクビになったことは苦い薬でしたが、それがなければ、確実にこれらのことも起こりませんでした。人生がレンガであなたの頭を殴っても、誠実さを失わずに愛せるものを探すのです。一度見つかれば、その愛すべき何かとの関係は、年を追うごとによくなっていきます。妥協はしないことです。
●死は新しい存在に道を与える変革者
3つ目のストーリーは死についてです。
17歳のときに、こんな言葉と出会いました。「毎日を人生最後の日だと思って生きていれば、いつかその思いが正しいとわかる日がやってくる」。そして、過去33年にわたり、私は毎朝鏡に向かって「もし今日が人生最後の日ならば、今日するつもりでいたことをやるだろうか?」と自問してきました。そして「ノー」という答えが何日も続くようならば、何かを変えるべき時が来たと気づくのです。
もうすぐ死ぬかもしれないという思いは、人生で大きな選択をするときに、自分にとっての最も大切なツールになりました。死を前にすれば、周囲の期待やすべてのプライド、失敗への恐れなどどこかに消し飛んでしまいます。そして残るのは、本当に大切なことだけです。心に従わない理由などありません。
1年ほど前に、私は膵臓ガンだと診断されました。私は膵臓が何かも知りませんでしたが、医師の見立てでは治療不可能なタイプであり、余命は3カ月から半年と言われたのです。それは将来、子供たちに伝えるべきことがあるなら、ここ数カ月のうちに済ませたほうがいいということを意味します。私は身辺を整理して、家族に別れを告げるときが来ようとしていました。
しかし、より詳しい診断の結果、私のガンは手術で治療可能なものだと判明しました。それがわかったとき、医師は涙を流して喜んだそうです。
これは自分にとっての臨死体験でしたが、あと2、30年は二度と体験したくないですね。それでも、この経験のおかげで、死を観念的にとらえていたときよりも、確信を持ってそれについて語れるようになりました。
誰も死にたくはありません。けれども、死こそは、生きとし生けるものにとって最良の発明であるといえます。死こそが古き者を排除し、新しき存在に道を与えてくれる変革者だからです。今は新しき者たちであるあなた方も、いつかは古き存在になり、取り除かれます。ドラマチックかもしれませんが、それが真実なのです。
人に与えられた時間は限られています。誰かの人生のために、それを無駄にしないでください。心と直感は、すでにあなたが進むべき道を知っています。それ以外のことは二の次でいいのです。
'60年代の末ごろ、スチュアート・ブランドという人物が作った「ホールアース・カタログ」という素晴らしい出版物がありました。私たちの世代にとってはバイブル的な存在で、たとえて言えばペーパーバックの体裁をしたグーグルのようなものでした。ただし、グーグルが生まれる35年も前のことで、タイプライターとハサミとポラロイドカメラで作られていたのです。
'70年代半ばに発行されたその最終号の裏表紙には、ヒッチハイクの途中で出会うような早朝のカントリーロードの写真と次の言葉が書かれていました。「ハングリーであれ、利口者にはなるな」と。
この言葉は、自分にとっても座右の銘であり続けています。そして、卒業していく諸君にも、同じ言葉を贈ります。
ハングリーであれ、利口者にはなるな。
どうもありがとう。
●関連サイト
Steve Jobs' 2005 Stanford Commencement Address
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