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マイコン時代を作ったっていう自負はあります──日本の“狂える”技術者たちへ

1980年代、日本発マイコンベンチャー「ソード」を知っているか──椎名堯慶氏インタビュー(後編)

大手がミニコンやオフコンにこだわっている間にワンチップで下から市場を食っていこう

『ホームコンピューター デジタル時代を決定づけた100の名機』(アレックス・ウィルトシャー著、伊賀由宇介、グラフィック社=原著"Home Computers: 100 Icons that Defined a Digital Generation" by Alex Wiltshire and John Short)には、ソードの「M5」と「M23 markⅢ」が掲載されている。ソードに関しては、「1984年には、A4サイズの本体に小型LCD画面を内蔵し、ストレージ用マイクロカセットを搭載した、文字どおりのポータブルコンピューター《IS-11》まで出していた。ソードは、実に野心的な技術を投入するコンピューターメーカーだった」という評価だ。

―― M5っていうホームコンピューターを出していますよね。マニアではなくて、価格などにおいてもお茶の間向けのパソコンとして振り切った製品でしたが。何年の発売でしかね?

大久保 1982年ですね。

椎名堯慶 まだ、ファミコンもMSXも登場前で、ゲーム市場で勝機があると判断したんですよ。

 大手企業との競争が激しくなりはじめていた時期でしたが、私たちの戦略は、富士山の雪に例えると、裾野の部分をカットして、トントンとやれば落ちてきますよね。そんな感じで雪を崩していくような考え方でした。我々で機械やソフトを準備してやれば、大手の市場を下から食っていけるという戦略だったんですね。

―― M5は、うまくいったのですか?

椎名堯慶 はい、相応に成功しましたね。大手がミニコンやオフコンにこだわっている間に、私たちはワンチップを使って下から市場を食っていったんです。大手は高価格帯の製品で利益を上げていましたから、値段を下げられない構造ですからね。私たちのような下からの参入は脅威だったんですね。

―― なるほど、理にかなった戦略ですね。

椎名堯慶 私たちの戦略としては、それまで、ホームコンピューターのフィールドをはっきり言って考えなかったんです。ところが、当時、テレビゲームが流行っていたじゃないですか。

―― スペースインベーダーが1978年ですかね。パックマンが1980年。エポック社や任天堂がテニスゲームしかできないような単純なものからでしたが、家庭用のテレビゲームも出てきていました。米国では、Atari 2600などカートリッジ型も発売されていた。

椎名堯慶 はい。そこなんですが、うちの常務の佐藤信弘は「ゲームは子供への害悪だから一定以上踏み込んではいけない」と言うんですよ。そこで、単なるゲーム機ではなく、もう少し本格的なホームコンピューターとして開発したのがM5だったんです。

―― ゲーム市場をねらったがホームパソコンとして発売された。

椎名堯慶 そうですね。開発用のBASICやゲーム開発用のBASICなど、3種類のBASICを搭載して発売しました。マイコンの勉強に最適なホームコンピューターとして設計し、もちろんゲームもできる。私も出向いて口説いてカートリッジに入れて売り始めるんですね。

―― 1982年の段階で、家庭でコンピューターやゲーム機が欲しいというようなムードはどのくらいあったのでしょうか?

椎名堯慶 はい、確かにその需要を感じていました。1980年ぐらいに起案して開発をスタートしましたから。

 ハードの開発からOSや言語の開発までやって。ユーザーが簡単にゲーム開発できる、スプライトやキャラクターの衝突判定など、ゲーム開発に必要な機能を、当時すでに提供していました。

 ゲーム機ならではの機能ですね。ただ単なるゲーム機ではなく、クリエイティブコンピューターとして、マイコンにつながるファミリー層を育てることを目指していたんですね。

―― MSX的なポジショニングですね。

椎名堯慶 はい。

―― ホームコンピューターの市場は、国内だけを見ていたわけじゃなかったですよね。海外に輸出していたと聞いています。

椎名堯慶 世界で展開しましたね。中国では何万台も買ってくれました。

 当時、中国向けは8ビットまでならCocom規制の対象外だったわけです。韓国のゴールドスターからも大量の注文がありました。ヨーロッパでも、英国、アイルランド、ドイツなど、私たちの現地法人を通じてかなりの数を販売できました。

―― M5のデザインはカッコいいという人がいるんですが、そのあたりについてはどのような考え方があったのでしょうか?

椎名堯慶 ソニーのウォークマンを立ち上げた人たちが何人かソニーを辞めてうちに来たんですよ。その人たちがM5の筐体やデザインを担当したんだったと思います。

 佐藤を中心に、優秀な企画者やソフトウェアデザイナー、プログラマーなど10人以上のチームを作り、ソフトウェア開発を進めましたね。

 当時は、もう宣伝費だけで月1億円ぐらい使っていましたね。テレビCMでは、氷の中にM23パソコンが入っていて、それをカキーンって割るんですよ。で、「アイスエイジは終わった」というものなんかを流しましたね。

―― M5はどのくらい売れたのでしょうか?

椎名堯慶 国内では初年度で10万台から20万台ほど売れました。海外でも韓国、中国、ヨーロッパでそれぞれ2万台程度で、全世界では20万台から30万台ほどの販売実績がありました。国内ではタカラさんが売ってくれた。タカラブランドでですね。

―― アイルランドというのは?

椎名堯慶 アイルランドには5年間の税金免除というスペシャルインセンティブがあったんですよ。シンガポールにも同様の制度があり、工場を設立しました。

―― その頃、世界的に見るとパソコンはどんな状況だったのですか?

椎名堯慶 その当時、アップルが世界的に台頭してきていましたね。デファクトスタンダードになってきた時期ですね。我々もアイルランドでオレンジコンピューターという名前で会社を設立しました。アップルの代わりにオレンジなんですよ。振り返ってみると少し拡大しすぎた面がありましたね。

―― 税制優遇の仕組みを活用して海外展開を進めた。

椎名堯慶 まあ逆にいうと、シンガポールやアイルランドの開発庁から積極的なアプローチもあり、ぜひぜひという話で工場設立を決めたわけですね。まあ、ヨーロッパでも好調でしたし、東南アジアでもインドネシアに工場を立ち上げてね。インドネシアの大統領も来られて、共同で立ち上げようみたいなことをやったり。我々も当時ノリノリでイケイケドンドンですから乗っちゃうわけですよね。

―― 80年代は御社でもPIPSやホームコンピューターを展開されましたが、Apple IIがデファクトスタンダードになり、MS-DOSも台頭してきた。そういう強いものが出てきます。

椎名堯慶 そういう流れに対して努力はしましたよ。MS-DOSもポーティングしましたし、海外向けにはCP/MとMS-DOS両方が動くマシンを出しました。ソフトウェアの互換性を確保するために必要だったんです。

 83年頃、なんとAT互換機も開発しました。それも早かったと思います。AT互換機は286プロセッサですね。うちは新しいことにチャレンジする社風でしたからね。みんなが「やるべきだ」と言えば「やろう」という感覚でした。

―― IBM PC互換機の盛り上がりはまだ先という時期ですよね。日本は比較的早く互換機に取り組んだという議論がありますが。

ソードのテレビコマーシャル。SORD PIPSと搭載機M23 markⅢ。


ミニコン:1960年代から1970年代にかけて主流だった小型コンピュータ。DECのPDPシリーズが代表的で、大学や研究機関で広く使用された。
オフコン:オフィスコンピュータの略。1970年代から1980年代にかけて企業の事務処理用に使用された小型コンピュータシステム。
Cocom:対共産圏輸出統制委員会の略。冷戦時代に西側諸国が共産圏への技術輸出を制限するための国際的な規制機関でした。
AT互換機:IBM PC/ATの仕様に準拠した互換機。1980年代後半から1990年代にかけて、IBM以外のメーカーが製造した互換パソコンを指す。
286プロセッサ:Intelが開発した16ビットマイクロプロセッサ。1982年に発表され、IBM PC/ATに搭載されて広く普及した。

Unixがあれば、IBMや富士通、NECと競合するようなコンピューターを作れる

椎名堯慶 1980年代のはじめにUnixを購入しました。理由は、16ビットの次は32ビットの時代が来る。中型コンピューターを作ろうと考えましたが、自分たちでイチから作るのは大変だと感じたからです。

―― 当時は、やがてパソコンもUnixになっていくだろうという考え方もでてきますね。1981年2月号の『月刊アスキー』に「マイコンのOSはUNIXで決まりだ」という記事があります。

椎名堀慶 そうですね。我々は、ボストンのMIT近くにあるチャールズ・リバー社から32ビットのリアルタイムUnixマシンのライセンスを1億円ほどで購入しました。それをベースに「UNIBOX」というUnix専用マシンを作ります。我々の場合は、中型からIBMや富士通、NECと競合するようなコンピューターを作れると考えたんです。

―― Unixを持ってくればそれが実現できるんじゃないか?

椎名堯慶 はい、できると思いましたね。当時はOSを自分たちで作るというのは考えにくかったのです。

―― 『The Mythical Man-Month』(日本語訳『人月の神話』)という本がありますが、OS開発は大変な作業だとわかっていたけど、Unixならできるのではないかと考えたのですね。

椎名堯慶 私たちならできるという自信がありましたので、19インチラックに収まるCPU 68000ベースのUnixマシンを開発することにしたのですよ。

―― それは、いつの発売でしたかね?

椎名堯慶 チャールズ・リバー社と契約したのは83年で、最初はM685という名前で販売しました。リアルタイム機能を持つUNIXマシンとして開発したんですよ。その後、UNIBOXはモトローラのMMUを採用し、OSもシステムVという正当な形になりましたよ。

―― それはUnixワークステーションが主流になる80年代中盤以降の前夜という感じですかね。

椎名堯慶 当時はまだワークステーションという概念はなく、ミニコンの時代でしたね。開発の渡邉亮二くんがアメリカから帰ってきて「これからはワークステーションだ」と言い出したのは、かなり後のことでした。そこで、私たちのCADマシンにマルチステーションを付けて、半導体の開発システムやCADシステムを32ビットマシンで商品化しようという発想でCADチームができたんですね。

―― タイミング的には世界的にみても負けてないですかね。日本の業界は、なぜUnixに行かなかったんですかね。

椎名堯慶 IBMや富士通などの大手メーカーは自分たちのOSを頑張りたかったからではないですかね。

大久保 私が1977年にアメリカに駐在していた時、大学の購買部でUnixやC言語の英文の本を買い集めて佐藤常務に届け、それをエンジニアが勉強していたんですよ。ソードは、そうしたことから開発力があって、モトローラのSDKを購入せずに、自分たちでCPUを改良してUnixが動作するベースを作り上げたんですね。

椎名堯慶 私だけじゃなく社員全員が鼻息が荒かったんですよ。だからやっぱり、みんなが一生懸命頑張ってくれて、とても充実した時期でしたよ。

―― このタイミングでワークステーションの開発に突っ込んでいれば、また違った世界が開けていたかもしれませんね。

椎名堯慶 ただ、ワークステーション開発は時期が早すぎました。アップルからLisaやMacintoshが登場して、みんなが驚いたんですよ。そこで我々のほうはビットブリットのGPUを作ろうという話も出ていました。

大久保 ビットスライスのCPUとしてAMD 2900を使って開発を進めていました。ソードでは、各チームがなかば勝手に独自の環境で開発できる良さがありました。

―― 当時は、RISCのブームが来て、技術が大きく変化するのではないかというムードがありました。

椎名堯慶 我々はUNIBOXのような中間的な立場にいたわけです。FORTRANでCADの開発などをやっていた時期に、時代の要請もありワークステーションを作ろうという方向に進んだのでした。ただ、Sunなどは半導体メーカーと組んで独自のOSであるSunOSを使っていたため、そういった環境を我々が作るのはとても難しいと感じました。

―― さらには、RISCプロセッサになって予測分岐など、かなり独特な実装でしたよね。Cコンパイラーもそれに対応する必要がありました。

椎名堯慶 そうですね、革新的であるためには常識にとらわれない発想が必要なんですよ。しかし、半導体のシミュレーション用のワークステーションなども調査しましたが、真似できないような高度な領域がありました。

―― ところが、そうした高度なワークステーションの世界が花開いたと思いきや、実際には、歴史として世界は最終的にそちらに流れていかなかったじゃないですか。

椎名堯慶 世界の大企業がPCに移行したことが1つの大きな転換点でしたね。ワークステーションもその流れに飲み込まれていきました。

『Can Do, SORD』(1986)という会社紹介リーフレットより。ベストセラーの「M200」シリーズのほかに、MC68000搭載の「M68MX」や世界最初のラップトップPCと言われる東芝「T1100」よりも1年以上早く発売された「IS-11C」が掲載されている。


AMD Am29000:AMDが開発した32ビットRISCプロセッサ。1988年に発表され、高性能なワークステーションや組み込みシステムで使用された。
ビットブリット:ビット単位での描画処理を行うためのハードウェア。グラフィックス処理を高速化するために使用される。
ビットスライス:複数のビットスライスプロセッサを組み合わせて、より大きなビット幅のプロセッサを構成する技術。
RISC:Reduced Instruction Set Computing(縮小命令セットコンピューティング)の略。命令セットを簡素化し、高速な処理を実現するプロセッサアーキテクチャ。
Cコンパイラ:C言語のソースコードを機械語に変換するプログラム。高水準言語から低水準言語への変換を行う。
ワークステーション:科学技術計算、CAD、グラフィックス処理などに使用される、小型ながら高性能なコンピューター。

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