マイコン時代を作ったっていう自負はあります──日本の“狂える”技術者たちへ
1980年代、日本発マイコンベンチャー「ソード」を知っているか──椎名堯慶氏インタビュー(後編)
2025年04月21日 09時00分更新
もし、ソードが突っ走り切ることができたらどうなったか?
日本のパソコンの黎明期、これぞスタートアップ、ベンチャー企業というべき会社があった。1970年代から80年代にかけて、ハードからソフトウェアまでを一貫して自社で開発し、独自のコンピューター製品を送り出した「ソード(SORD)」である。「その創業者・椎名堯慶氏へのロングインタビュー《前編》」では、1974年に世界的にも最初期に発表したマイコン「SMP-80/X」、1977年に発売されたパソコン「M200」を軸に、1970年代を中心にソードの軌跡を辿った。
今回の《後編》では、ソードの展開がどのようにパソコンの時代の先端を走っていたか、より多面的に描いていくことになる。
かつてパソコンは「BASICなどのプログラミング言語を使いこなせなければ使えない」と言われていたのをご存じだろうか? そんな時代に、ソードは1980年に画期的なソフトウェア「PIPS」を発売している。PIPSは、プログラミングの知識がなくても、ビジネスユーザーが表を使って実務処理を効率化できるソフトウェアだった。世界最初の表計算ソフトとして知られる米国のVisiCalcとほぼ同時期に、日本から生まれた同じ方向性の製品だった。
1982年、ソードはゲーム市場に着目して、ホームコンピューター「M5」を発売する。CPUには当時人気のZ80を採用し、4万9800円という低価格で提供。国内でもホームコンピューターが注目され始めた時期だが、M5はコンパクトで洗練されたデザインでより明確にそれを打ち出した製品だった。これは、任天堂の「ファミリーコンピュータ」や家庭用パソコンの共通規格「MSX」が登場する前年のことである。
1980年初頭、コンピューターサイエンスの関係者を中心にUnixが注目されはじめる。ソードは、アメリカの会社からUNIXリアルタイムOSのライセンスを購入して日本語化を行い、32ビットCPUのMC68000を搭載したマシンに採用。Unixがミニコン用のOSからワークステーションの時代へと移行していく中で、ソードは、ビジネス分野における"次の標準"を模索していたのだった。
今回は、こうした製品や技術に加えて、ソードという会社が歩むことになった運命についても触れる。かつての日本社会では「出る杭は打たれる」という言葉がよく使われていた。1980年代前半の日本企業は、想像以上に古い体質が残っていたのだ。椎名氏の証言によれば、ソードが厳しい経営状況に追い込まれ、最終的に東芝による買収に至った背景には、必ずしも技術的な問題ではなく、そうした古い体質による軋轢によるものがあった。
もし米国のコンピューターベンチャーたちのように、ソードがこの時代を突っ走りきることができていたらどうなっていたか? いくつものハードルがあったのは確かだろう。しかし、ソードのスピード感をもってすれば、我々が想像しえないような形での可能性があったのではないか。1980年頃までには、大企業を中心に実に多くの会社がマイクロプロセッサを搭載したコンピューターや端末を発売した中で、新しいパソコンという分野を切り開きリードしたのが同社だったからだ。
椎名氏は、日本企業はビジネスモデルを取り入れるのに時間がかかってしまうと指摘している。ソードの後、椎名氏が奇跡の復活を遂げることができた理由も、水平分業というこの分野のモノづくりの手法を先取りしたからなのだった。ソードと同氏の取り組みは、日本の産業史における貴重な一時代の記録であり、今日の日本企業が直面している課題に対しても明確なヒントを与えてくれるものである。
本インタビューは、2025年2月、東京・東銀座にあるドワンゴ本社で行われ、同年4月に開学したZEN大学のコンテンツ産業史アーカイブ研究センターのオーラル・ヒストリーとして記録されたものである。当日は、元ソード社員の今村博宣氏と大久保洋氏の同席のもとで行われた。
※前編は「1970年代、日本発マイコンベンチャー「ソード」を知っているか──椎名堯慶氏インタビュー(前編)/「3カ月で製品」8080を世界最速で実用化できた理由」を参照。
時代を画したプログラミングを不要にする簡易言語「PIPS」

PIPSの画面。この画像は『月刊アスキー』2000年10月号で日本のエレクトロニクスの歴史で重要な12製品を連載で紹介した「デジタルの殿堂」に掲載時のもので画面をコラージュしたものとなっている。実際のPIPSの画面は1画面に1つの表やグラフを表示、検索や並べ替えをはじめ事務処理を効率化するための処理が可能だった。
―― 電源を入れれば使える、いわゆるパソコンとして発売したM200は1つの時代を作り出しましたが、この時期のソードといえば「PIPS」ですよね。プログラミングが不要になる、当時、簡易言語ともノンプログラミング言語とも呼ばれ注目されました。PIPSは、どのようにして誕生したのですか?
椎名堯慶 PIPSの開発のきっかけは、日本銀行の職員だった望月宏さんからでした。望月さんは、営業部長の金子を通じて「ソード社のM200シリーズを使って、PIPSのようなものを開発したい」という提案をしてきたのですよ。金子部長が望月さんのアイデアに大変興味を持ち、徹夜で開発に取り組んでいました。最初はBASICで開発を進めていたのですが、金子から「これを世界的に展開したい」という提案もありましたよ。
―― 望月さんは日銀の業務上必要なツールとして開発を考えていたのですね。
椎名堯慶 そうですね。当時はVisiCalcが登場し始めた時期でしたが、私たちのPIPSとVisiCalcはほぼ同時期に開発が進められていたと思います。
―― BASICでいちいちプログラムを書く必要のない開発ツールを作るべきだと提案があった。我々のよく知っている表計算ソフトとは同じものではないが、事務処理を簡易化するツールであった。
椎名堯慶 はい。そういった命令セットが必要になると考え、個人が机上で簡単な事務処理ができるシステムの開発を決定しました。7~10人規模の開発チームを立ち上げましたよ。
―― 望月さんにお話をうかがったことがあるのですが、実際の開発はソードでそのような体制を組んで作られたのですね。
椎名堯慶 はい。インストラクションセットで何かをオペレーションするというアイディアは望月さんです。その後、マーケティングも含めてソードの権利にという契約書をいただいて本格的な開発をはじめたんです。開発チームには、後にヤフーの社長になる井上さんなど、当時は理科大の学生だったと思います。
―― そうですか、井上雅博さん。
椎名堯慶 はい、開発チームには東⼤の(保科君)やソニーでゲーム開発をした(島田君)など、後に活躍する優秀な学⽣アルバイトが多くいましたね。社員3〜4⼈と合わせて10⼈ほどのチームを作りました。
―― 大規模な開発体制ですよね。
椎名堯慶 そうですね。当時の社員150人規模の会社で10人くらいですからね。1979年から開発を始めましたが、かなり時間がかかりました。BASICでは簡易言語を作るのには使いものにならないので、Cコンパイラで開発することにしました。
―― 当時としては先進的ですね。Cコンパイラはどこから?
椎名堯慶 Lattice CとWhitesmith Cを使いました。当時は、CP/M上で動く8ビット時代ですから、かなりモダンな開発環境でしたね。開発チームは本当に寝る間も惜しんで開発に取り組みましたね。井上さんたちは寝袋を持ち込んで、徹夜で作業をしていましたよ。その結果、1年半ほどで完成することができました。
―― その頃の競合といったら?
椎名堯慶 当時の競合はVisiCalcでしたが、日本ではPIPSの方が圧倒的に勝ったんですよ。PIPSはデータベース機能を持っていて、ページ間でデータを連携できるなど、VisiCalcにはない機能がありました。本格的なビジネス用途を想定して、複雑な処理も高速に実行できる実用的なツールを目指しましたからね。
―― 個人向けの作業支援ツールではなく、ビジネス向けの本格的なソフトウェアだったわけですね。
椎名堯慶 そうです。調査会社が来るなど非常に注目されていましたよ。ひょっとしたらマイクロソフトなども我々のマニュアルなどを見ていたかもしれません。
―― 御社とマイクロソフトは距離が近かったんですか。
椎名堯慶 はい。彼らがアルバイトで数人でスタートした頃から、うちの大久保や佐藤が訪問して情報交換していました。当時のマイクロソフトはBASICを作ったばかりでしたが、我々はすでにOSからBASICまで全て持っていました。我々の方が先行してすべてを開発していたので、マイクロソフトは後発という見方をしていましたね。
―― 御社はミニコン向けの開発をしていた時期に、アメリカではホビーグループからマイコンが出てきて、マイクロソフトはその頃BASICを作った段階だったと。そこにIBMからの仕事が来て、PC-DOSが登場したわけですが。

PIPSは、第四世代言語と呼ばれる種類のソフトウェアだがパソコンならではの操作性が特徴だったといえる。大型コンピューターの世界ではInformatics社のMark IVなどがあるが、パンチカードで使用するものだった。『別冊サイエンス・パーソナルコンピューター』(日本経済新聞社、1981年)の「PIPS誕生記」で、望月氏は「PIPSの1つの特徴は《表》を採用している点である。日常業務を観察すればわかるように、かなりの処理過程において《表》でアイデアを生み、《表》で計算などの加工をほどこしたうえ《表》で結果を他人に提示したり、保管している」と書いている。
望月宏:PIPSの考案者。1952年生。日本銀行在職時に日本最初の表計算ソフトであるPIPSを開発。元専修大学経済学部教授。
VisiCalc:1979年にApple II向けに登場した世界初のパーソナルコンピュータ用表計算ソフト。
CP/M:8ビットパソコン用の代表的なOS。1970年代にDigital Research社のゲイリー・キルドールによって開発され1976年に発売。
井上雅博:ヤフー株式会社の創業メンバーの一人で、1996年に孫正義の後を継ぎ社長に就任。1957年生、2017年没。
PC-DOS:IBMが1981年から提供したIBM PC向けのオペレーティングシステム。マイクロソフトが開発、同社はMS-DOSとして他社向けにも販売した。
本来はマイクロソフトのようにOSやパッケージソフトのベンダーになりたかった
椎名堯慶 日本のIT産業がアメリカから引き離されてしまいましたが、当時の我々には、それを食い止められる可能性があったのではないかと今でも悔しく思いますね。
―― 米国でも、VisiCalcは出てきたけどマイコンの世界は、まだまだホビーという時代に、御社は「PIPS」に象徴されるようにオフィス向けのビジネスアプリケーションをやられていた。
椎名堯慶 そうですね。事務用の「RPG」もありましたし、PIPSの他にも本格的なCADの開発もしていました。それから日本語ワープロも手がけていて、1976年頃には経産省から補助金をもらって日本で初めて開発したんですよ。
―― 80年頃はOAブームが来ていましたが、当時の業界はどんな状況だったんですか?
椎名堯慶 業界全体が本当に激しく動いていた時期でした。大手企業からOSや言語の提供を求められることも多かったんですよ。うちはそれを断ったのが私の失敗なんですね。その理由の1つは、ソフトウェアが外部にエクスポートするような作り方になってなかった。
―― ハードとソフトが密に繋がっていた?
椎名堯慶 ソースコードの体系が独自のものになっていて、リロケータブルローダーから全て作り直す必要があったからですね。また、OSの機能も高度で、様々な部分を使っていたためエクスポートが難しかったですね。
―― 最初のIBM PCなど、メモリも16KBだったりしますが、当時の資料を読むとPC-DOSも標準搭載というよりも、いくつかのアプリを動かすために提供された感じでしたね。
椎名堯慶 だから、そういう意味ではね。当時、多くの有名企業からOSやPIPSの提供を求められましたが、エクスポートできる体制が整っていなかったためお断りするしかなかった。本当は提供したかった。でも、それができる体制に準備ができていなかった。それが事実ですね。
―― 本来はOSやパッケージソフトのベンダーになりたかった。
椎名堯慶 それはね。マイクロソフトの成功を見て、我々もそうすべきだと思いました。それで、社内でもずいぶん議論しましたが、技術的な難しさがあったんですね。長年かけて作ってきたものですから、設計思想から始まって、それを様々なプラットフォームに展開できる体制が整っていなかった。A社、B社、C社向けに個別にコーディングをしなきゃいけないわけで、それは現実的ではありませんでした。結局、私の判断でやめようということなったんですね。
―― 難しい問題ですね。誰よりも先行していたから独自路線であった。やがて、OSを前提にハードウェアも作られていくようになっていったわけですが。イノベーションのジレンマじゃないけど、どうしても突き当たる問題かもしれません。
椎名堯慶 そうですね。
―― 1981年にIBM PCが登場し、国内では翌82年にPC-9801が出てきましたね。その後、1984から1986年くらいにかけてMS-DOSが普及していって、ビジネスの世界にパソコンが浸透していきます。この段階になって、はじめて椎名さんが創業時にイメージされていたようなミニコン、オフコンの世界を食っていくようなものになる。しだいに、デファクトスタンダードも出来上がってきて誰でも作れる時代がきます。
椎名堯慶 そうですね。1982年頃はPIPSマシンがめちゃくちゃ売れました。月3000台ほど売れていましたが、1984年頃から競合が厳しくなってきました。
―― 主要電機メーカーも当たり前のようにパソコンを作って出揃ったという状況になったわけですね。NECや富士通、日立などが有名ですが、本当にエレクトロニクス関連のメーカーはかたっぱしから参入したといってもよい状況になっていきます。
RPG(リポートプログラムジェネレーター):IBMが開発した、業務用レポート作成向けのプログラミング言語。
CAD:Computer Aided Design(コンピュータ支援設計)の略。コンピュータを使用して設計・製図を行うシステム。
リロケータブルローダー:プログラムをメモリ上の任意の位置に配置できるようにするローダー。メモリの利用効率を高めるために使用される。
Unix:1969年にAT&Tのベル研究所で開発されたオペレーティングシステム。マルチタスク、マルチユーザーをサポートするOS。今日でもLinuxとしてサーバーやデジタル機器、AndroidやMacOSのカーネルまで幅広く活用されている。
PC-9801:NECが1982年に発売した16ビットパソコン。1980年代後半から1990年代の初頭まで日本のパソコン市場でトップシェアの座に君臨した。
デファクトスタンダード:事実上の標準規格。公式な標準化プロセスを経ずに、市場での普及によって事実上の標準となったもの。
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