【ZONE 03】国際的な企業へ(1970~1985年)
軽自動車から小型車へと拡大した東洋工業の自動車ラインアップ。その当時の最上位セダンが「ルーチェ」(1966年)です。ベルトーネデザインの流麗なボディーに、1490ccクラス初となる水冷直列4気筒SOHCエンジンは、クラストップの性能を発揮。国際的にも通用する立派な車格と高い性能で、欧州輸出の先鞭を切りました。
そして1967年。東洋工業は世界で初めてロータリーエンジンの量産化に成功! 未来的なスタイルのボディーが印象的なスポーツカー「コスモスポーツ」に搭載しました。ルーチェの2倍以上の価格(148万円)と相まって、東洋工業の先進性や技術力を象徴するイメージリーダーとして人々の心をつかみました。
マツダミュージアムでは、コスモスポーツの1/2の線図(船体線図)が展示されています。線図は船舶のような複雑な形を表す図面で、手書きで描かれたそれは、まるでアートのよう。なお、マツダは今でも線図でデザインをしているそうです。
ロータリーエンジン専用車として登場したスペシャリティーカー「サバンナ」(1971年)。翌年にはGTグレードが追加され、パワフルな12Aエンジンと5速MTでスポーツカーのイメージが定着しました。またサーキットでも活躍し、1976年には国内レース通算100勝を達成しました。
1973年に発生したオイルショックにより、東洋工業は「燃費の悪いロータリーエンジン」というレッテルを貼られ、販売台数が大幅に下落しました。そこで登場したのが、起死回生のロータリーエンジン搭載車「コスモAP」です。コスモAPは人気を博したのですが、東洋工業はボディー後半部分を、ランドウトップと呼ぶビニールレザー貼りのトップ+ノッチバックとしたバリエーションモデル「コスモL」を市場投入。
主にアメリカのラグジュアリーカーで採用されていたランドウトップを、日本車として初めて本格導入したことで話題を集めました。
コンパクトなロータリーエンジンの特徴を最大限に表現したスポーツカー。第1次オイルショック以降に、マツダが復活のプロジェクトとして掲げた「フェニックス計画」で燃費を50%近く改善し、新しい排気ガス規制もクリア。モータースポーツでも大活躍し、東洋工業とロータリーエンジンの復活を強く印象付けた1台です。
マツダとしては初となるフロントエンジン・フロントドライブ方式を採用した5代目「ファミリア」。広い車内空間と快適装備、そしてスポーティーな走りで若者を中心に高い支持を集め、その人気は3ドアハッチバック車のルーフにサーフボードを載せる「陸サーファー」という社会現象を起こしました。また第1回 日本カー・オブ・ザ・イヤーにも選ばれています。
1984年に企業名とブランド名を統一し、「マツダ株式会社」へと社名変更。その翌年に、より大人のスポーツカーへと進化した2代目「サバンナ RX-7」が登場しました。
エンジンはツインスクロールターボ付きの13B型で、205PSを発生。ボンネットや足回りにアルミ材を用いることで軽量化も達成し、高い運動性能を発揮しました。1987年にはロータリーエンジン誕生20周年を記念した2シーターオープンの「カブリオレ」が登場しました。
【ZONE 4】企業の威信をかけた世界への挑戦
マツダはモータースポーツでも活躍しました。マツダミュージアムでは、その一端に触れることができます。
マツダのモータースポーツ活動は1960年代のツーリングカーレースにまでさかのぼります。その舞台は日本のみならず、本場である欧州へ。1968年、ドイツのニュルブルクリンクで開催された「マラソン・デ・ラ・ルート84時間レース」に、2台のコスモスポーツで参戦。1台は残り3時間で駆動系トラブルによりリタイアしましたが、もう1台は4位フィニッシュ。ロータリーエンジンの信頼性、耐久性を証明しました。
ほぼ時を同じくして、スパ・フランコルシャン24時間レース(ベルギー)に、4台のファミリアロータリークーペで参戦。レース中盤に31号車がトップに浮上し、ほかの3台も上位を快走。10Aロータリー×2という1リッターに満たない小さなエンジンながら、「ポルシェ 911」などを相手に健闘し、69年は5&6位、70年は5位に入賞しました。
戦いのフィールドはラリーへも。当時のWRC(世界ラリー選手権)の最高峰クラス「グループB」規定で作成したサバンナ RX-7で参戦します。デビュー戦は1984年のアクロポリス(ギリシャ)で9位完走。その翌年には総合3位に入りました。当時、WRCは四輪駆動がメインだった時代なので、そこに後輪駆動車が表彰台に登ったことは快挙でした。その2年後の1987年、マツダはファミリア4WDでWRC初優勝を果たします。
そしてマツダのモータースポーツ活動で忘れてはいけないのが、1991年のル・マン24時間耐久レースの総合優勝でしょう。マツダ初のカーボンモノコックを採用したマツダ787を徹底的に改良。コーナリング性能やブレーキ性能を大幅に向上させました。予選19位からスタートした55号車は、メルセデスやジャガーと競いながら21時間目にトップに立つと、そのままチェッカー。翌年からロータリーエンジンの禁止という崖っぷちの状況の中、日本車初の栄冠を手にしました。
ル・マンを制した最強のロータリーエンジンR26B。1990年に「従来のエンジンに比べて100PSアップ」を目標に、654cc×4ローターで構成され、最高出力700PS(9000rpm)/最大トルク62kgf・m(6500rpm)を達成。マツダ 787Bに搭載された91年版は、さらなるレスポンス改善と燃費向上、信頼性・耐久性の強化が図られました。
ピットガレージを模した展示エリアには、当時のスタッフが着用していたであろうウェアのほか、栄光のトロフィーが飾られています。しかも手で触れられそうな距離に!
また当時ピットで使われていたであろうツールボックスまで。ちなみにKTC製で、一見とても綺麗なのですが、あちらこちらに傷が。マツダスピードのメカニックたちを支えたツールボックスを見るだけでも感動します。
マツダの至宝にして、日本モータースポーツ界の金字塔であるマツダ 787B。本物だけが持つスゴみがあり、見た人は体の震えが収まらないのでは? 事実、ほとんどの来場者が写真を納めるのだとか。なお、当時のアスキーが発行していたPC雑誌「ログイン」もマツダ 787Bを支えていたんですよ。ぜひここも撮ってください。
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