週刊アスキー

  • Facebookアイコン
  • Xアイコン
  • RSSフィード

3カ月で製品! 8080を世界最速で実用化できた理由

1970年代、日本発マイコンベンチャー「ソード」を知っているか──椎名堯慶氏インタビュー(前編)

Apple IIと同じ1977年にオールインワンのM200を発売

椎名 1978年ぐらいかな。おそらくマイコンシステムの市場のマーケットシェアで言うと20%前後。海外でもフランスなんかでは5%を取ってました。

―― 国内で他のメーカーはいわゆる総合電機メーカー系のマイコンって感じですね。

椎名 みなさんはっきり言って、MicrosoftのOSが出るまでは皆さん鳴かず飛ばずだったんですよ。というのは、自社でマイコン用のOSなんか作る気はないわけですからね。当時は、彼らは大型機に集中していましたからね。

―― NECや富士通は、その後になってようやく箱に入った8ビットマシンを出してきましたが、どちらかというと業務用というよりはホビー向けのような印象でした。少なくともそうみられてる傾向がありました。

椎名 そうですね。我々はBUSINESS BASICとかCOMMUNICATION BASICとか、ちょっとカテゴリー別の特殊なコマンドを用意したベーシックも作ってありました。それから、RPGⅡっていうIBMのビジネス言語ありますよね。

―― リポートプログラムジェネレーター。

椎名 そうですね。あれと互換性のあるRPGⅡの開発もやりまして、それは、あの兼松さんと一緒に開発しましたね。これは売れましたよね。一式700~1000万円ぐらいで売られていたと思いますが。

―― ソフトとハードがあるけど、どちらかというとソフトが強みという感じだったのですか?

椎名 そうですね。まず私たちはRPGⅡを開発し、その後BUSINESS BASICやCOMMUNICATION BASICなどを手がけました。それから、当時、Microsoftがアルバカーキからワシントン州に本社を移転した時期でしたが、私たちの社員がMicrosoftを訪問したところ、ネットワークを活用した開発体制が整っていたんですね。その情報を受けて、私たちもすぐにネットワークOSの開発に着手しました。1〜2年の開発期間を経て完成したのが、S-NETというシステムです。

―― その頃、会社は何人ぐらいだったのですか?

椎名 その頃、1978年頃ですね。社員数は、年間30人から40人ずつ増えていましたから、1977年から1978年で150人くらいだったと思います。

―― その頃はもうテレタイプを繋いでるようなやつじゃなくて、専用のキーボードとディスプレーですか。それにフロッピーディスクがついた。

椎名 8MBのハードディスクを標準オプションとして提供していました。1978年頃には既にそのDOSシステムが稼働していました。

大久保 1977年9月に、M200というコンピューターを発売します。キーボード、CRT、フロッピーディスク、プリンター、オールインワンにしたコンピューターです。

―― それは、もう内容的にはパソコンですね。

大久保 SMP80/Xで先行したソードが、これも世界的に見ても最初期だったと思います。

―― 1977年といえば、米国でもApple IIとか、コモドールPET 2001やTRS-80といった、はじめてケースに入って電源を入れれば使えるような。当時はマイコンと呼んでいましたが、いわゆるパソコンが誕生した年じゃないですか。

椎名 そうそう。ディスプレーが付いていて、必要なものが全て一体化されてる。販売も好調で、国内でもとても売れましたが海外でも多くの需要がありました。アメリカではあまり売れませんでしたが、ヨーロッパでは特に好調な売れ行きだったんですよ。

『月刊アスキー』1977年11月号(創刊5号)表紙。デザインの細部は異なるが本体一体型のキーボードやプリンタなどソードM200をイメージさせる。アスターインターナショナルのCOSMO TERMINAL-Dもほぼ同時期に発表されているが、このM200はシリーズ化してソードの主力商品になっていく。

―― アメリカは競合があったっていうことですね。

椎名 競合というよりも、マーケティングの難しさですね。ヨーロッパ、特にフランスでは大きな成功を収めました。デュポンという大手化学会社がかなり買ってくれました。実は、フランスでの成功には、私の知人が大きく貢献してくれたんです。彼は、エアフランスの元職員で、フランスで起業したマーケティングの専門家でした。彼から「フランス市場を任せてほしい」と言われ、お願いすることにしました。その後、よい代理店を見つけてくれ、月に50台から100台ほど販売してくれるようになりました。フランスはヨーロッパで最大の市場となり、その成功を受けて他のヨーロッパ諸国、例えばイギリスにもオフィスを設立するようになりました。

―― 商社は通さなかったのですか?

椎名 商社は三井物産にお願いしていました。ドイツやスペインなどの欧州市場を担当してもらいました。ドイツにはメンテナンス工場を設立し、アイルランドにも生産工場を建設しました。これは1980年代前半のことです。その後、1980年代に入ってからは中国・韓国市場にも進出しました。

―― M200は、CPUは8080からZ80という感じですか。

椎名 Z80は、私たちが日本で、そして世界で初めてのユーザーだったんです。8080では性能が物足りないと感じていたので、Z80の発売元であるザイログ社に行き、イタリア人のフェデリコ・ファジン氏に会いました。その場でZ80を譲っていただき、すぐに持ち帰って試作機を作りました。大手企業はベンチャー企業が開発したCPUには手を出さないのですよ。私たちはZ80の高速性もあってうまくいったんですね。結果として、8080搭載機として開発したZ80搭載のM200シリーズは、市場で大きな成功を収めることができたました。

―― そういうものを見つけたらすぐ出かけていって会っちゃう、そういう感じですか?

椎名 すぐに出かけて買ってしまうような、そういうスタイルでした。ベンチャーマインドというのかね。今でも息子に「お父さんは動きが早すぎる」と言われます。「だから失敗するんだ」とか皮肉も言われますが。当時は、私たちは本当に早かった。どの企業よりも早く動いていました。時間というものを大切にしていて、創業当時から人の3倍早くやる。私たちが1年かけてやるというのは、普通の企業なら3年かかるようなことだと。そういう感覚、生活スタイルでやっていましたからね。

―― ベンチャーですね。いわゆるワンマン社長ということですかね。

椎名 そうだと思います。そんな調子でしたから、社員にずいぶん無理をかけて申し訳なかったと思っています。残業時間なんか聞いたら200時間にもなることがあって、本当に申し訳なかったです。Microsoftは、寝袋もって社内でやったというのは有名ですけど、うちもそれに近いような感じだったと思います。でも、みんな嫌がらずに頑張ってくれたんだと思います。いまでも、7、80人のソードに関わった人たちの会があってね。これがまた、盛況なんですよ。いまは思い出は楽しいという状況なんだと思います。みんな大変だったかもしれないですが。

青梅にあるマイコン博物館に展示されているソードM200シリーズの2機種。M223 mark III(左)とM243(右)。

RPG(リポートプログラムジェネレーター):IBMが開発した、業務用レポート作成向けのプログラミング言語。
Z80:米ザイログ社が1976年に発表した8ビットマイクロプロセッサ。8080の上位互換で、広くパソコンに採用された。
フェデリコ・ファジン:イタリア出身の技術者。インテル4004や8080、ザイログZ80の開発者として知られる。

 本インタビューは、椎名堯慶氏本人のほか、元ソード社員の今村博宣氏(1983年入社、株式会社ハフト代表取締役、2月に逝去された)、大久保洋氏(1977年入社、株式会社近畿エデュケーションセンター 事業推進室 技術顧問)が同席のもと行われた。また、コンテンツ産業史アーカイブ研究センターの遠藤諭と大石和江が聞き手として参加した。インタビューの後編は、4月中旬頃の掲載を予定している。

■関連サイト

ZEN大学 コンテンツ産業史アーカイブ研究センター(HARC)について

 本稿で紹介した椎名堯慶氏のインタビューは、ZEN大学 コンテンツ産業史アーカイブ研究センター(History of Content Industry Archives Research Center)のプロジェクトの一環として行われた。ZEN大学 コンテンツ産業史アーカイブ研究センターは、2025年4月に開校するZEN大学内に設立された研究拠点である。同センターでは、日本のIT、ゲーム、マンガ、アニメーション、ネット文化といったコンテンツ産業に関する貴重な資料や証言を収集・保存し、オーラルヒストリー(口述記録)として体系的に整理、公開することを目的としている。デジタルゲームとその関係資料の保存などに関する研究実績を持つ細井浩一氏をセンター長に迎え、同大学の教員陣を中心にコンテンツ産業に知見を持つ研究員によって進められている。すでに40件以上のオーラルヒストリーを収録しており、2025年度より順次その内容をアーカイブとして内外に公開する予定である。

遠藤諭(えんどうさとし)

 株式会社角川アスキー総合研究所 主席研究員。MITテクノロジーレビュー日本版 アドバイザー。ZEN大学 客員教授。ZEN大学 コンテンツ産業史アーカイブ研究センター研究員。プログラマを経て1985年に株式会社アスキー入社。月刊アスキー編集長、株式会社アスキー取締役などを経て、2013年より現職。趣味は、カレーと錯視と文具作り。2018、2019年に日本基礎心理学会の「錯視・錯聴コンテスト」で2年連続入賞。その錯視を利用したアニメーションフローティングペンを作っている。著書に、『計算機屋かく戦えり』(アスキー)、『頭のいい人が変えた10の世界 NHK ITホワイトボックス』(共著、講談社)など。

この記事をシェアしよう

週刊アスキーの最新情報を購読しよう

本記事はアフィリエイトプログラムによる収益を得ている場合があります

S