3カ月で製品! 8080を世界最速で実用化できた理由
1970年代、日本発マイコンベンチャー「ソード」を知っているか──椎名堯慶氏インタビュー(前編)
2025年03月22日 09時00分更新
コンピュータは簡単に作れる
椎名 防衛大学校に浪人して入学しましたが、1カ月ほどで退学することにしたんですよ。ここでは、まわりにはなんとか大将の孫など、そういう人が多く、大臣になれるほどの出世は難しいと感じたんですね。そこで進路を変更し、子供の頃から興味があった実業の道を選びました。叔父からも毎晩のように実業について教育を受けていたこともあり、実業家になることを決意したんです。その後、東海大学に進学しましたが、そこには大型計算機センターがあったんですよ。
―― えっ? もう大型計算機センターがあったんですか?
椎名 当時、東海大学には珍しく大型計算機センターがあったんです。私は、その大型計算機センターでアルバイトをしながら大学生活を送ろうと考えて行ったんですが、いまはバイトはないよと言われてしまいました。それでも、実業家になるという目標に向かってさまざまな経験を積みました。クラスの仲間が代返してくれて、その間、私は、座間の米軍PXでの英語を学ぶためにアルバイト、日産自動車座間工場で倉庫管理、3年生のときは第一家庭電気での販売などやりました。とくに第一家庭電気では、全社員が一丸となって働くために必要なことはなにかということを学んだと思います。
4年生になると就職活動を始めました。理経という会社に行くことになりますが、その前にIBMやオリベッティなど、当時の計算機の会社を受けました。オリベッティからは内定をもらいましたが、3日間の研修会に参加してみると、ノルマの話が多く、私には合わないと感じました。
そこで大学に戻って先生に相談したところ、「こういう小さな会社があるけど、行ってみるか」と理経を紹介されたんですね。夏休み初めの頃、サンダル履きで理経に行ってみたのですが、その日に採用試験となり、その場で採用が決まったのです。それで、ここでアルバイトを早く始めたいと思いました。理経はDECのミニコンを扱っていたので、私もDECのミニコンについて学びたいと強く希望しました。そして8月末から、ミニコンについて必死で勉強を始めました。
―― PDPシリーズですね。
椎名 PDP-8の時代なんです。12ビットのコンピューターで機械語から勉強しまして。いろんなI/O(入出力)などのプログラムを作ったり、いろいろ勉強させていただきました。

DECの大ヒットしたミニ・コンピューター「PDP-8」。写真の初期モデルでは上部にアクリルの扉の中にロジックモジュールが納められている(米Computer History Museumにて筆者が撮影)。
―― PDP-8は、非常にオープン(技術資料が公開されていた)と聞いてますけど。
椎名 はい、非常にオープンでした。PDP-8は、ソースコードから全部読めたんですよ。OSのソースコードやドライバー類、それからIOカードと呼ばれるインターフェースカードなど。このI/Oカードをシステムバスに差して拡張できるスタイルで、そういった仕組みを勉強させていただきました。そして、入社から8カ月ほど経った12月に、アメリカのDEC工場へ1カ月、勉強のために派遣されました。そこで、工場を毎日見学させてもらったのですが、コンピュータとは「こんなに簡単にできるのか!」と驚きました。
―― 簡単に?
椎名 簡単にっていうのは、1969年にDECに派遣されたわけですが、当時は、コンピューターといったら、神様みたいな扱いをする。神棚に飾るようなものでしたからね。世の中としては大変なものだと思われていましたからね。
―― 簡単にできるってどういうことなんですか?
椎名 コンピューターはデリケートな繊細な機器ではあるわけですが、丁度この時期はトランジスタ回路からICに転換する時期でした。実は、製造現場では温度管理や空調など、想像していたほど厳密な管理は必要なかったんです。温度テストも、ダンボール箱にセロハンを張って、その中に機器を入れて行うような簡易的なものでした。高価な温度試験装置は必要なく、こんな方法なら自分でもコンピューターを作れるんじゃないかと感じました。
―― IBMの大型機の世界だと空調が効いた部屋でないと動かすことができない印象が強いですからね。
椎名 意外とそうではない世界だったんです。翌年3月に2回目の訪問をした際、LINC-8という医療用の総合実験システムと、LAB-8というPDP-8を使ったラボラトリー用のオートメーションシステムについて学びました。LINC-8は動物実験での行動観察や化学分析などに使われるシステムで、これらを通じてコンピューターシステムの素晴らしさと可能性を実感しましたね。
―― そうした先進のシステムも見たんですね。
椎名 それで、帰りにニューヨークに立ち寄って2泊ほどしたんですが、その間にイエローページでソフト会社を洗い出して、4、5社ほど訪問しました。驚いたのは、アポイントもない突然の訪問にもかかわらず、どの会社でも副社長が出てきて丁寧に会社説明をしてくれるんです。どの会社も、その後のウォールストリート52番街周辺のベンチャー企業のような雰囲気でしたね。
―― ピンポーンって感じで行ったということですね。
椎名 行ったら会ってくれる。そこで、これからはシステムの時代が来ると確信しまして、会社に理経コンピューターセンターというのを作るべきだという提案書を提出したところ、なんと、やらせてくれたんです。
―― そういう会社だったのですね。まだ全然若造って感じなんですよね?
椎名 まだ入社して1年ちょっとです。ただ、大学時代に東海大学の望星寮というのがあって、550人ほどの学生をまとめる委員長のような役割を務めていました。いろんな慈善事業や果樹園の運営などさまざまな活動を通じて、人をまとめることや協力して動くことについて多くを学んでいたんですよ。
―― なるほど。
椎名 だから入社2年目ですかね、理経コンピューターセンターの設立となったんですが。ソフトウェアとハードウェアを組み合わせ、お客様へのソリューションを提供するシステム産業へと展開すべきだという考えだったのです。
―― 当時の業界ではまだそのような取り組みは見られない時期ですか。
椎名 当時はまだそのようなシステム開発は一般的ではありませんでしたね。最初に手がけたのは、筑波にある東京大学地震研究所の地震観測システムです。これは24時間365日稼働が必要な重要なシステムで、HITAC 10を2台使い、中央のハードディスクに両側からアクセスできる障害対策を施した一種のフォルトトレラントなシステムでした。ハードウェアとソフトウェアの両面で開発を行い、初年度から大きな売り上げを達成することができました。
―― 初年度から成果をあげた。
椎名 初年度で3億円ほどの売上があったんじゃないかと思うんですよ。記憶ですが。2年目も大きな成果を目指しましたが、組織変更などがあったりしてですね。これを機に、じゃあ私も自分で始めようと独立を決意しました。だから大学卒業後3年目にソードを設立したのです。
―― なんと。
理経:株式会社理経。1960年代後半からDEC製ミニコンピューターを日本国内で取り扱った専門商社。
オリベッティ:タイプライターや計算機などを製造したイタリアの老舗オフィス機器メーカー。コンピューター分野でも知られる。
DEC(Digital Equipment Corporation):米国マサチューセッツ州に本拠を置いたコンピューター企業で、ミニコンピューター「PDPシリーズ」や「VAXシリーズ」で知られる。
PDP-8:DECが1965年に発売した12ビットミニコンピューター。小型で安価だったため大学や研究機関で広く使われた。
HITAC 10:日立製作所が開発した小型コンピューターシリーズ。1960年代後半から1970年代にかけて使われた。
週刊アスキーの最新情報を購読しよう
本記事はアフィリエイトプログラムによる収益を得ている場合があります