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3カ月で製品! 8080を世界最速で実用化できた理由

1970年代、日本発マイコンベンチャー「ソード」を知っているか──椎名堯慶氏インタビュー(前編)

そこには大型計算機センターがあったんです

―― まずは椎名さんご自身のバックグラウンド、この業界に入られたきっかけからお聞かせください。

椎名 私は、1943年生れですが子供の頃から科学雑誌を読んだりしていました。小学3年生になった頃には母が原子力や航空、自動車産業などについての本を買ってくれて、それらにずっと興味を持ち続けていたんですね。

 第二次大戦で日本が敗れた主な理由は科学技術の遅れ、特にレーダー技術の未熟さにあったといわれます。あったが使われなかった。私は中国から引き上げて九十九里浜近くで育ちましたが、そこで米軍のF6F戦闘機や片貝海岸での演習の様子を目にしていました。毎日飛行機や大砲の音を聞いていたわけですが、日本の敗戦を大変悔しく感じていました。そんなこともあってか、九十九里浜での中学校ぐらいからは連発銃とか……、それからロケットなんかも自分なりに作ったりしていました。

―― 子供がそういうものを自分で研究して作ってたのですね。

椎名 中学1年生の時に御茶ノ水まで行ってロケット工学の本を買いました。科学技術や電子機器に強い関心を持っていました。中学2年生で将来は防衛大臣になりたいと思い、防衛大学校への進学を決意しました。

―― 戦争が終わるときは何歳なのですか?

椎名 2歳半で日本に引き上げなんですね。昭和18年12月に北京で生まれて、日本に帰ってきたのが終戦の翌年、昭和21年4月です。(千葉県の)匝瑳(そうさ)市で育ち、そこの小学校に通い、中学2年までいました。3年の時に親戚が池袋の大山でカメラとおもちゃの店をやっていたので、そこで仕事を手伝います。カメラ販売を覚え、高級カメラも売れるようになりました。おじさんの教え方がうまかったんだと思いますけど、私も商才があると言われて育ちました。

 その頃、叔父(大野若松氏)が毎晩、10時頃から政治、経済、文化的な勉強会を開いていました。「大野屋学校」と呼んでいたのですが、そこで世の中のさまざまなことを教えてもらいました。

―― お父さんのほうはどういうお仕事されたんですか。

椎名 父は、華北鉄道の鉄道員をやっていたんですね。日本に帰ってからは特に仕事はしていなかったんですけど、科学や技術に非常に興味を持っているタイプで、子供の頃から原爆の仕組みなど、いろんな科学的なことを教えてくれたんです。そういう環境で育ったこともあって、私も壊れたラジオを分解したり、電気工具や道具類を使って自分なりにいろいろ工作をしていたんですよ。

 そんなわけで中学3年生の時に東京へ出て、いい高校、いい大学へ行きたいと思いました。ところが、板橋中学校に入学したものの、成績は800人中700位とか600位くらいで、その学力差に驚きました。東京の生徒たちは毎月実力試験をやっていたのに対し、私たちは試験自体あまり経験がなかったので、のんびりしていたんです。それでも、そこから高校に進学し、やはり防衛大学校を目指すことにしました。

80歳を超える年齢には見えない溌剌とした調子でインタビューに答えていただいた椎名堯慶氏。

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