はじめまして。新横浜ラーメン博物館の中野です。
入社して、今年で24年目となります。広報や企画、世界中のラーメン店やラーメンの歴史調査などラーメンにまつわるさまざまな業務を担当しております。
当館は、1月9日の緊急事態宣言後、臨時休館をしておりましたが、明日(4月17日)より営業を再開いたします。
この臨時休館の期間を有効に活用し、皆様により安心してご利用いただけるために大幅な換気システム等の設備工事を実施し、約6分間で館内のすべての空気が入れ替わるほど換気力がアップしました。
しかしながら換気は目に見えませんので、営業時間中は、常に地下の広場の二酸化炭素濃度をライブ配信し、換気の可視化を行い、できる限り皆様に安心をお届けしたいと思います。
当館の換気についてhttps://www.raumen.co.jp/information/news_001070.html
前置きは長くなりましたが、このたび貴重なご縁をいただきましたので、普段あまりお話しない、新横浜ラーメン博物館の裏側を連載形式でご紹介できればと思っております。最初は自己紹介もかねて、これまで多くの方々からご質問をいただいた「ラー博の何故?」についてお話しできればと思っております。
質問が多いTOP5は下記の通りです。
1位 どのような経緯でラーメン博物館を作ったのか?
2位 どうやってラーメン店を選んでいるのか?
3位 どのようにお店が入れ替わるのか?
4位 何故? 昭和33年の街並なのか?
5位 何故? 新横浜に作ったのか?
これらの質問の原点は「何故? 新横浜に作ったのか?」に起因しますので、今回の連載ではこの質問からお話したいと思います。
当館は1994年3月6日に開業し、今年で28年目に入りました。
創業者は、現在も代表取締役であり館長でもある岩岡洋志(いわおかようじ)です。岩岡は1959(昭和34)年、新横浜駅の南口に位置する港北区篠原町に生まれました。大学卒業後、専門商社に入社し、その後1985(昭和60)年に父親が経営する地元新横浜の不動産会社に入社しました。入社時の新横浜は開発ラッシュで、さまざまな企業が新横浜に進出していました。
しかし、岩岡は自分が生まれ育った新横浜がどんどんコンクリートに囲まれた冷たい街になっていくことに寂しさを感じたのと同時に、この街にも話題性があり、週末になると家族が訪れるような施設があれば新横浜は変わるのではないか?という思いになりました。
今でこそ新横浜は発展しておりますが、昭和30年代の新横浜は横浜市内最大の水田地帯で、一面の田畑が広がっていました。1964(昭和39)年、東京オリンピック開催の年に新幹線が開通し、バブル景気と共に新横浜はオフィス街として発展していきました。ちなみに現在ではすべての新幹線が停車する街へと発展しております。
このような状況の中、岩岡は自分が生まれ育った街が発展するのはうれしい反面、オフィス街のため、土日になると人がまったくいない寂しい街であることが気がかりでなりませんでした。ラーメン博物館を構想していた当時は、横浜アリーナも日産スタジアムもありませんでした。
そこで岩岡は地元の仲間たちと週3回ほど集まり、街の発展についていろいろな議論をしました。横浜アリーナが1989(平成元)年に開業するのをきっかけに新横浜を音楽の町にしようとか、さまざまな案が出ました。結果的にこの会からラーメン博物館の構想が生まれたわけでありませんが、新横浜の課題点やヒントを得ることができました。
そこからどのようにしてラーメン博物館の発想に至ったかは次回にお話しますが、つまりラーメン博物館の構想の原点は、岩岡が生まれ育った新横浜の「地元愛」なのです。だからこそ、その想いがあって「横浜ラーメン博物館」ではなく、あえて「新横浜ラーメン博物館」という施設名にしたのです。
初回はちょっと堅苦しい話ではありますが、この地元愛が原点となってラーメン博物館が誕生しております。
次回は「どのような経緯でラーメン博物館を作ったのか?」についてお話いたします。
新横浜ラーメン博物館公式HP
https://www.raumen.co.jp/
・Twitter:https://twitter.com/ramenmuseum
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