──F岡さんが1000号おめでとうっていうのは変ですかね?
F岡:いや、おめでとうございます。僕の離脱した後によく1000号まで続けてくれたなって、今、もう感謝の思いでいっぱいです。
──創刊の思い出から語っていただけますか?
F岡:創刊……基本的につらいことだらけだったよね。とてもプレッシャーのかかる日々だったんですよ。もう時効だから言っていいと思うんだけど……、当時のアスキーは資金に困ってたわけです。それこそ'97年5月に一般誌の『週刊アスキー』が終わって、要はリストラの真っ最中だったわけ。それから事業にCSKグループも関与してきて。
──なるほど。
F岡:昨日まで書籍の編集やってた編集者たちが、どういうわけか十何人も営業の部隊に回されたりして、とにかく駅のキヨスクやコンビニを回る。俺がやったわけじゃないよ? 当時の経営陣がやったんだけど、ひどいよね……と思いつつ。でも、その人たちがパソコン誌の『週刊アスキー』を売ってくれたんですよ。その人たちがキヨスクをまわって、週アスをいい場所に置いて、本屋さんに行って、目立つところに置いてくれた。
──ありがたいことですね。
F岡:でね、週刊アスキーの創刊の日(’97年11月20日)に、全員で出陣式をやるの、朝。で、その週は北海道拓殖銀行が破たんして、山一證券が破たんするという、日本の金融市場かつてない、悲嘆にくれた1週間の最中に創刊したんですよ。
──ええ。
F岡:そんな最中にホールに集まって出陣式をやるんだけど。「週刊アスキー編集部の人は行かないでいい、編集部は仕事しろ」と。でもそれ以外の人たちは、週アスを売る場所を決めて、エリアも決めて、そこから出陣したっていう。……で、その出陣式でなんかしゃべれっていうんだよね、俺に。酷なこと言うよね。そこに集まったほとんどが元編集者でさ、そんな中で「自分たちが作った雑誌をお前ら売ってこい」って言えないじゃん? それってとても酷なことでさ。どう頭を下げていいかわかんなかったよね。……そういう葛藤しか思い出せないんですよ、今思うと。
──その日、何を話されたかは覚えてらっしゃらない?
F岡:たぶん、「一生懸命作ったので、あの……」くらいしか言えなかったと思う。そういう状況にあったんですよ。当時のアスキーって。
──『EYE・COM』の思い出はどうですか?
F岡:あ、『EYE・COM』から数えて1000号なんだよね? 僕は入ったばっかりだったからさ。原稿を一生懸命つくってました。2ページしか担当してなかったんだけど、その懸命に作ったごくわずかな短い文章を、当時の副編集長に死ぬほど直されて。何回も何回も。相当へこんだ覚えがあって。割と自尊心ずたずたになった。俺もう編集向いてないかもみたいな……っていうのがその最初です(笑)
──人に歴史ありですね。
F岡:すごかったですよ、ダメ出し!
──意外です。
F岡:EYE・COMの頃は何から何までつらかったですよ。だって出社して1週間帰れなかったからね。なんで帰れないんだこんなに? って思うぐらい。そしたら当時の編集長がさ、「椅子を並べて寝て、寝返り打てたら編集者として一人前だからな!」とか言ってて。もう、意味わかんない(笑)
──伝説の“椅子寝り”はそこで(笑)
F岡:うん。“椅子寝り”。でもね、椅子3つ並べて寝るっていうのは、今考えればとても幸福な時間だよね。今2つくらい?(笑)
──下手すりゃひとつですよね。
F岡:かなり贅沢な環境だったんですよ。今じゃ3つもなんて怒られますよ。
──週アスですごく楽しかった思い出はなんでしょう?
F岡:なんだろう……ああ、週アスの表紙撮影で、歌のお姉さんに会えたことかな。
──歌のお姉さんですか?
F岡:いやもうあれは、よかったなぁ~本当に。特に表紙の撮影とか立ち会ったのは3回くらいしかないけど。『だんご3兄弟』歌ってた茂森あゆみさん。あとは小池栄子さんとね……。すいません本当にすいません(笑)
──今、週アスPLUSにある、1000号のティザーページについて聞いてます?
F岡:いや。
──1000号ぶんの表紙がWEB上に出るんです。週刊アスキーの歴史とともにITの歴史もわかるし、芸能人の歴史も、ファッションの歴史も……。
F岡:俺も1回くらい表紙になっとけばよかったね!
──思い出に残ってる企画とか連載はありますか?
F岡:う~ん。あぁ……毎回、“ツチノコを探す”って企画を出すバカがいてですね(笑)。女性編集者だったんですけど。ツチノコをどうしても探したい!、と。もうしつこいから、やったら? って言ったら、「探せませんでした」と。まぁ当たり前の結果になるんだけど、なんなんだこれ!?(笑)みたいなね。
──誰だろう(笑)
F岡:あとは……連載で一番思い出に残っているのは、う~ん。……いしかわじゅんさんに、その連載の打ち切りを伝えに行った時かなぁ……。あれはその、編集をやってきた中で一番つらかったですね。
――『だってサルなんだもん』の。
F岡:あれは本当につらくて、なんか途中から覚えてないんだよね。途中で、いしかわさんの前で涙がこぼれた時からもうあんまり覚えてなくって……。気が付いたら井の頭公園でぼんやりしてる自分がいて、何やってんだろう……みたいな感じだったなぁ……。
──長くやってると、お別れはありますね。
F岡:EYE・COMで最初に手掛けた連載が僕、いしかわさんの連載だったんで……うん……。結構つらいですよね、それって。
──ほかにはありますか?
F岡:うーん、『カオスだもんね!』については多分、カオスだもんねチームが書くから、たくさんあるけど、そこは省略しますね(※1000号に掲載)。いい思いもいっぱいしたけどね。ホテルでご飯は本当においしい企画だったなとかさぁ(笑)
──海外もたくさん行かれてましたよね。
F岡:ずいぶん行かせていただきましたね、本当に。どうなんだってくらい(笑)。ただ、EYE・COMから週アスになる前だったかなぁ。会社の分裂騒動があったでしょ?
――あぁ、はい。ありましたね。
F岡:アスキーを離脱した人たちが、アクセラという会社を立ち上げて。その時に僕も当然誘われてたわけです。で、行った奴もいれば残った奴もいて、まぁ僕は、雑誌をここで続けようと思って残ったんだけどさ。その渦中で、あろうことか3週間も出張でヨーロッパに行ってまして。まぁ逃げてたんですけど(笑)、分裂騒動の最中なんで会社もゆるいわけですよ。
──それどころじゃないと?
F岡:むしろ脱藩されては困るっていうので。3週間もぼんやりとヨーロッパのコンベンションを転々とするという。でも最後の3日間くらいで腹が決まって。行く直前までは、「やっぱ恩義あるし、アクセラ行って手伝いたい」みたいな思いがすごく強かったんだけど。最後の3日間くらいで「いや、行かない!」って腹が据わったんですよね。やっぱり読者と一緒にいようって。
──そこで別の選択をしていたら、確実に今の週刊アスキーは出てなかったわけですよね。
F岡:うん。「週刊化する!」って言い出した奴がいないからね。
──アスキーの創業者のひとりでもあり、社長だった西和彦さんとの思い出はありますか?
F岡:西さんとはいろいろありましたよね。まぁ給料上げてくれたんで(笑)。普通に廊下歩いてたら、「お、F岡! がんばっとるやんけ! 給料上げたるわ!」え? マジすか? みたいな(笑)
──廊下で給料が上がる(笑)
F岡:廊下で目が合ったら給料が上がった(笑)。すぐその場で人事部長が呼ばれて、「F岡の給料上げたって」や、やったーみたいな。まぁそういう感じです。
――いやー(笑)、はい。
F岡:でも西さんとは相当やりあったんですよ。例えば週刊アスキーの表紙をどうするとかね。西さんが編集部に来て、AD(アートディレクター)さとー君の机にドカッと座って勝手に表紙をいじり始めるんだよね。
――勝手に?
F岡:「もっとこうやったほうがええで!」とか言いながら全部いじって「よっしゃこれで行け!」って帰るんですよ。で、帰った後に僕が「あ、さとー君。全部最初に戻して!」って。お互い頑固だよね(笑)。一番激しかったのは、出張先から電話がかかってきて、「おいF岡! ヘアヌードや! ヘアヌード入れなアカンで!」って言ってきて、それで大ゲンカして。その場で電話バシーッ!って切ったら、相当怒ってて、しばらくは口きかなかったよ(笑)
――西さんは、結構うるさい感じだったんですか?
F岡:うん。もう大ゲンカ。「あいつ頑固や!」って言われても譲らなかった。でもやらなくてよかったよ、ヘアヌード。
――まぁ、そうですね。
F岡:でも唯一、言うこと聞いてよかったのは、あの英文字のASCII。「ASCIIをカタカナにせい!」って言われて、「いや~、それはやだな~かっこ悪いよね」って。なんか間抜けじゃないですか?……って思ってたんだけど。
――あれは西さんだったんですか。
F岡:そう。あの決断は西さんだったんです。あれはすごかったですよ。あれがなかったら今のアスキーもなかったと思いますし、確かに英文字のASCIIだったら英文字の雑誌なんかコンビニとかさ、キヨスクの駅の売店とかで全然目立たないじゃん?
――目立たないですね。
F岡:なるほど、と思って、それは言うこと聞いたの。素直に。本当にいいアドバイスだったよね。
――……目の前であれなんですけど、僕ら週アス編集者に何かメッセージとか伝えたいことってありますか?
F岡:あー、まあ頑張ればいいんじゃない? え? 言っていいの? ダメ出しとかしていいの?
――あ、言っていただいてもう。ダメなところとかも本当。
F岡:あのさぁ……今ちょっと説教臭いよね。
――説教臭い?
F岡:僕はね、EYE・COMの編集長始めた時に、なんかこうパソコン誌ってずっとそうだったんだけど、パソコンって相当難しいことがいっぱいあって。とにかく“みんなに教える”っていうスタンスになってしまうわけよ。価格とかも“教えてあげます”っていうスタンスなんだけど、あれが嫌でさ。
テストレポート始めたきっかけでもあるんだけど、なんか読者と一緒に、“ここ苦労したよね”とか言いたいわけ。トホホ会なんかまさにそこのコンセプトなんだけど、読者と同じ目線で、同じところでつまずいてるんだよ、大体。「あ、高いの買っちゃった!」とかね。「iPhone6の保護シート貼り損ねた!」とか。なんかさ、同じ目線のものが欲しいの。だからこそ共感できる。で、そういうのを始めたのがEYE・COMだったの。で、週アスもそれは引き継いでたんだけど、そこってすごく大事だと思うんだよね。
F岡:情報だけだったらネットで事足りるんだからさ。読者と同じように、同じ場面で、あがいて苦しんで苦労してっていう所が、僕は今の雑誌につきものだと思うよ。目線を下げるっていうと言い方悪いけど、そこはもっと同じ目線に持ってかないとって気はすごいする。で、そういう意味では、すごい説教臭いって言ってる。
――大事なヒントが。
F岡:あ、でも最近おもしろかった記事あったよ。忘れちゃったけど、これ超おもしろいとか(笑)。結構読んでますよ?
――ありがとうございます。確かに、週アスPLUSの方でやってる記事も、保護フィルムがiPhoneにうまく貼れなかったとか、ガラス全滅したとか、そういうものが10万PVとかなんですよね。
F岡:あとさ、別に解決しなくていいんだよ。みんな一生懸命問題を解決しようとするでしょ? 解決しないっていうのもありなんだよ。解決できないことってあるでしょ? だって。ないことないでしょ?
――まあそうですね。常にトライアンドエラーですよね。
F岡:解決しないことも含めて記事の一部だと思うわけ。僕は、“実際にやってる”っていうのが大事だって思うし、その、雑誌ってライブ感がすごく必要で、すべて解決したら本当に予定調和になっちゃうし、雑誌って絶対解決してくれるからって読んでるわけじゃないと思う。……こんなこと言うと読者からすごい怒られる気がするけど。
――はい。
F岡:でもそれこそが雑誌のライブ感だと思う。ダメな雑誌だな~、編集者だな~こいつら、とかさ。よく言われましたよEYE・COMの頃。EYE・COMの誤植とかすっごい指摘されたんだけど。
――恥ずかしながら、今も割とあります……。
F岡:でも、これも多分怒られちゃうんだけど、結果って部数でしか出ないんですよ。アンケートいっぱいもらって、意見はとても参考にしなければいけないんだけど……。もう辞めたから言えるし、これは僕の前のEYE・COM編集長のセリフでもあるんだけどね。
「読者の意見を気にするな、部数だけ気にしろ」って言われたの。読者の判断は、絶対正しいの。読者が選ぶものは絶対的に正しくて、売れなかった号はつまんなかった号なの。売れた号は絶対おもしろかった号なの。だから、そこの判断だけは、揺るがない。
――なるほど。
F岡:一番気にしなきゃいけないのは、売れてるか、売れてないか。部数が落ちたら、絶対つまんない号なわけ。大勢の読者が判断することは、絶対正しい結果なんで、そっから類推すればよくて。だからマーケティングデータなんて絶対信用するな! っていつも言ってたんだけどね。そんなものなくても、週アスの良いところと悪いところがわかる、明確なデータをすでに持ってるわけだから。そうでしょ? わかりきってることなんです。
――では、次の質問ですが、F岡さんにとって週刊アスキーとはどういうものなんでしょう。突き詰めれば、雑誌とは? っていうのをお尋ねしたいんですけど。
F岡:難しいよね。だって……良いこと言わなきゃいけないんだよね、こういうのって(笑)。雑誌は俺の人生そのものだー! とか言うんでしょ、だって(笑)
――(笑)また雑誌を作りたい、というのはないんですか?
F岡:うーん、結構ほら、雑誌媒体を作るっていうのは、熱量のいる仕事でさ。今、自分がそれを持てるかどうか、という相談だけですよね。それこそどういうスタッフ集めて、嫌なスタッフはどういう感じで辞めさせようかとか(笑)、そういうの考えたり。で、あと広告部と嫌なセッションをするわけですよ。「○○を表紙に入れてください」とか言われて、「えー?」とか言うのが結構あったりするし。そこで突き返す迫力みたいなのが必要。怒ってもないのに怒ったふりをしなければいけないっていう。
そういう“編集長を演じる熱量”っていうの? 僕にとっての雑誌は、“編集長を演じてた”っていう風に思うんですよ。今、こうやってすごく距離を置いたところで語れるのは、演じてる自分を見てるから。みんなに悪いこと言ったかもしれないけど、あれは編集長を演じてたF岡なんです(笑)
――え?(笑)、あのゴミ箱を蹴ったりも、全部演技だった?
F岡:もうあれは演技ですよ。本当に大変申し訳なかったんですが(笑)
――みんな相当ビビッてましたけどね。
F岡:それはとても熱量のいる仕事なんですよ。普段の本当の自分は本当に気が弱くて……基本的にヒッキーの……。
――あの、ちょっと個人的にひとつ聞きたいんですけど、今の週刊アスキーを見て、もっと変わるべきなのか? あるいは雑誌としての役割みたいなのはとりあえず終えたのか? といったような部分でご意見いただけますか?
F岡:う~ん。直接答えたことになるかどうかわからないんだけど、「みんな楽しんで作ってんのかな~?」とか、「好きなことをやってんのかな~?」とか、ちょっと思う所があって……。僕は、メディアは“カギ”と“カギ穴”の関係だと思ってるわけ。読者がカギ穴を持っていると考えて、僕ら編集者はカギを作ってる。読者のカギ穴の形に合わせてカギを作るっていうのが、マーケティングデータからはじき出される作り方です。今見ていると、割とそんなふうに見えちゃうんです。だけど、読者のカギ穴って変化するわけで。求めてるものからちょっとずれると、もう買ってくれなくなっちゃう。
――はい。
F岡:だけど、自分たちがちょっとずれた変なカギを作っても、読者が合わせてくれることもあるわけ。なんか変なカギ飛んできたぜ、って。ちょっとおもしろそうだから合わせてみるか、っていうふうに、僕らの作るカギに読者が合わせてくれることがあるの。で、そこがすごい重要で。
だっていつもさ、読者の鍵穴にぴったり合ったカギ穴を作る必要はなくて、僕らのカギに合わせてくれる読者を作るべきであって、僕らが一生懸命作った変なカタチのカギかもしれないけど、それに合わせてくる読者を増やすべきなの。その読者はずっとついてきてくれるし、今もたぶん週刊アスキーの母体になってくれている読者層だと思うし。
それは1997年に今の週刊アスキーが創刊したときの異常な編集方針もあったわけだけど、CPUで目玉焼き焼いてしまうみたいな、相当おかしな記事をやってた。それまでのパソコン誌でなかったような、“僕らの妙なカギ”を作った。そして、そこに合わせてくれた読者はずっとついてきてくれる。そこをまずやるべきであって、合わせるべきじゃないんですよ。だから、昔はみんなの好きな企画やれって言ったから、だから、あのツチノコも許したわけ。もしかしたら、ツチノコに会えるかもしれないじゃない?
――昔、週刊アスキーが一般誌の方向にまた傾くんじゃないかっていうような質問をマスコミに聞かれて、F岡さんが「その一般誌って何?」って一刀両断したのを覚えてるんですけど、覚えてらっしゃいますか?
F岡:うん。あ、言ったかもしれない。
――で、結局パソコン専門誌、IT専門誌を貫き通したっていうのが印象的でしたね。本当に、もうずっとパソコン雑誌であり続けるべきですよね。週刊アスキーは。
F岡:そうあるべきだと思うし、で、なんかそういう変なカギが合うカタチを作るべきだと思うな。そのためには、組織の中が活性化しないと。いろんな方向に興味持ってるスタッフ集めて、で、出してくる企画書はヘボいんだけど、おもしろいかもしれないからそれをどうやってキャッチアップするかみたいなところがポイントで。自分たちのほかにはできないカギの形を作る。ずっとそんなことをやっていると、読者がそれに合わせてくれる。でも全く形が違うとすぐ離れていくんだけど、その微妙なさじ加減があると思うの。
――F岡さんのあの“きもん会議”(企画もんでもんでいい気持ち会議、の略)は脈々と引き継がれていますので、今も。
F岡:なんかねぇ、査問会議みたいになってる時もあったけど、本当はそうじゃない。
――議論を戦わせております。
F岡:はい。
――では最後に。F岡さんの今後の活動と、今後の夢みたいなのもちょっと語っていただきたいんですが……。
F岡:げげげげげ!
――F岡さんがこれから何をするのかとか。
F岡:今は、午前中はずっと“艦これ”(艦隊これくしょん)やって、午後から歌舞伎とか観に行ったりする、隠居ジジイみたいな暮らしをしてますけど。ニートとも言いますが。実はKADOKAWAにいる最後の4年間くらいに初音ミクに関わって、そこでなんかサイボーグ的なものを見ちゃったんですよ。“機械化する生命体”といいますけども。あれ……なんか僕disられる気がする。
――そこは気にせずお願いいたします。
F岡:“生と死の間”っていうものを昔からよく見てきて、好きなんですよね。此岸と彼岸の狭間のところ。そういう意味で、その狭間で動いている初音ミクはとてもおもしろかった。存在してないのに、存在してるとか。で、今度は初音ミクを離れて、もういちどそれ的なことをやってみたいなって思ってるんですよ。……まだ言えないんですけどね。
――なんでしょう。気になります。
F岡:それからまぁ、KADOKAWAのほうからは、教育事業に少し知恵を出して力を発揮しろ、と言われています。興味あるジャンルでもあり、やらなきゃいけないジャンルでもある。どうやって日本のメソッドを海外に伝えていくのかっていうのは、これからやっていきたい部分ではあります。やっぱそこになんか日本のおもしろいメソッドがあるわけです。……個人的な趣味としては、オキュラスリフトのソフト作っているので、週刊アスキーがちゃんと売り上げにつながるようにしてほしいなと(笑)。
――はい。ぜひご案内ください(笑)
F岡:そんなわけで別に隠居したわけじゃないんですけど、あのまあしみじみとやっておりますので。
――最後に、読者のみなさんへメッセージをお願いします。
F岡:はい。えー、長々と本当にありがとうございました、読者のみなさん。本当に読者のみなさんのおかげで、アスキーに入って、KADOKAWAという名前に変わって辞めるまで、ちょうど25年。四半世紀ずっと編集の世界で現場にいられたっていうのは、本当に幸せだなぁと思います。大半は編集長でしたので、本当に幸せなことだったなあと思いますね。支えてくださった読者の皆様に、これまで機会がなかったので、この機会に改めて感謝を申し上げます。
本当に、ありがとうございました。
※こちらのインタビューは、24時間ニコ生のグランドフィナーレ用に収録された、初代週刊アスキー編集長、福岡俊弘(F岡)のインタビューです(2014年9月9日収録)。編集し、実際に放送された映像(約5分)と、時間の都合により放送できなかった未公開映像部分を含めテキスト化したものになります。
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