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“Winnyは金子さんの天才的な一面にすぎない”——東大 平木教授インタビュー

2013年07月12日 18時30分更新

 金子勇さんの急逝に際し、東京大学 情報理工学系研究科 創造情報学専攻の平木敬教授がインタビューに応じてくださった。平木教授は言うまでもなく超高速コンピューター研究の第一人者であり、Winnyが世に出る以前から金子さんの優れた理論構築と実装力を認め、Winny裁判でも、またそれ以降も積極的にバックアップし、尽力してきた人物だ。そして、2012年12月に金子さんが東大に復帰してから最も身近に接してきた一人でもある。

 Winnyは金子さんの持つ天才性の一端でしかないはずで、平木教授は、金子さんの功績をもっと世の人に知ってもらいたい、と語る。研究者・金子勇さんの素顔に迫る本記事は、前後編2回に分けてインタビュー形式でお伝えしていく。
(※インタビュー収録日:2013/7/10)

“Winnyは金子さんの天才性の一例にすぎない”——東大 平木敬教授 独占インタビュー
平木敬教授は、ハードウェア・ソフトウェア・OS・コンパイラなど様々な領域を横断したコンピューターの高速化研究の第一人者。

■「一人の人が作ったものが、これだけ日本で広く使われたことは非常に重要な業績」

平木:彼は世間的には『Winny』の作者として非常に有名であるし、一人の人が作ったものが、これだけ日本で広く使われたことは非常に重要な業績であることは疑いない。でもそれは、彼の天才的な場面が現れた一例に過ぎないと思っています。

 元々は彼は工学部(茨城大学工学部情報工学科)の出身で、シミュレーションプログラムを書く専門だったわけで、実に様々なものを今までに作っています。例えば運動に基づいて物が動作するものを作るとか、ホントのシミュレーション行動をするとか、それの周辺を固めるとか、ずいぶん大きな仕事をたくさんされていました。そういった面というのはとにかく埋もれがちなんです。私はそこ(金子さんのあまり報道されない功績)を、非常に強調したいと思っています。
 Winnyの裁判があって、それで東大という職を離れて、しばらくはいろんなことをしていたんですけれど、ようやく2011年12月に最高裁で無罪の判決が出て、それで再び東大に彼をお迎えして、今からいよいよ仕事をしようというときでした。彼は情報基盤センターでHPCというスーパーコンピューターのソフトウェア開発の仕事をされていまして、周囲の期待はものすごく高かった。
 随分と無駄な時間を過ごしてしまったわけですけれど、いよいよ彼の力を本当に発揮できる基盤ができて、これから頑張ってもらおうと、良い成果が出るのを待っているという状態の時の突然の訃報で、本当に残念です。

——金子さんが正式に東大に戻られたのはいつからなんでしょうか?

平木:12月だったと思います。

——平木先生と、金子さんの関係性をお聞かせいただけますか。裁判等にあたっては、実際には平木先生が後ろ盾のようになっておられたというお話は聞いています。

平木:元はと言えばですね、2001年か2002年かな、“戦略ソフトウェア創造人材養成”という科学技術振興調整費の新しいプロジェクトが走りました。そのとき私は運用の責任者をやっていまして、新たに特任教員という制度ができた。それまではなかったんですけど、文部科学省の外部プロジェクトでも東京大学の中で教員として雇うことができるという制度です。制度がいきなりできましたので色々なことがあったんですけれど、その一番最初の雇用として何人かの人を雇用しまして、その中の一人が金子先生だったわけです。

——それは未踏ソフトウェア創造事業とは別のものですか?

平木:まったく違うものです。未踏ソフトウェア創造事業というのはIPAがやっていまして、この前に金子先生は未踏ソフトウェア事業をやっていらしたわけですけれど。
 この文部科学省の科学技術振興調整費というところでは、今まで研究プロジェクトが多かったんです。しかも研究所系のものが多かったわけですが、(この時期に)新しく大学が中核となって進める2種類のプロジェクトが走りました。

 1つは“戦略的研究拠点”というもので、最初の年に先端研さん(東京大学 先端科学技術研究センター)がやられたものです。もう1つが“新興分野人材養成”というもので、今まで大学の教育ではちょっと落ちがあった新しい分野で積極的に人材養成をするためのものです。その新興分野というのはいくつか指定されていて、1つにソフトウェア分野がありました。
 ソフトウェアというのは、今までの形が決まっている教育だけではできません。個人的に優秀な人を集めて、個人塾のように育てて行かなきゃならない。ということで、私達が研究科で申請書を書いて、新しく提案したのが『戦略ソフトウェア創造人材養成プログラム』というものでした。

 これが実際に許可されて走り始めたわけですね。
 そこでは、情報理工学系研究科の全専攻から参加する受講生を募集して、何人かの特任教員の先生を雇用して、1体1教育に近いような、非常に密な教育を実施していました。毎週全員で集まって、今どういう開発をやっている段階かということを個別に検討して、特任の先生、または私達から教育を受けるということをやっていました。それで、非常に大きい成果を得たわけです。例えば、つい最近、『GPS将棋』(※1)がプロに勝ったというニュースがありましたよね。あれをやってるグループの一人も、我々の人材養成の出身者なんですね。

“Winnyは金子さんの天才性の一例にすぎない”——東大 平木敬教授 独占インタビュー
※1 GPS将棋=東大のゲームプログラミングセミナー(Game Programming Seminar = GPS)のメンバーでつくるコンピューター将棋プログラム。プログラムのソースコードはオープンソースで公開されている。GPS将棋のページ(関連リンク)

——金子さんはそこで特任助教をされていたと。

平木:専任でそこで教育にあたっていました。随分いろんなことをやりました。例えば今の将棋の話でも、ちょうど情報理工学系でノートPCを導入するというので、720台、まとめて業者から買ったことがありました。実際にその機材を配布する前に、720台を使ってノートPCのクラスタを作って、それで(何かを)やろうと。アプリケーションとして将棋を選んで、やろうと。金子さんもそこの実施には深く関わっています。

——当時金子さんは30代に入ったばかりの頃ですよね。

平木:はい、大学を出て数年、原研(日本原子力研究所、現 日本原子力研究開発機構)にいて、それから未踏ソフトウェア創造事業に参加して、という段階で、まだそれほど大きく世の中に出てくるという感じではなかった頃です。でも、当時から非常に優秀な方でした。

——金子さんは研究者としてはどういったタイプの研究者だったんでしょうか。

平木:研究者としては、すごく手が動くと言うんですか、どんどんソフトウェアが作れると。その分、論文を書くのはあまりお好きじゃなかったかもしれない。情報系ではありがちです。ただ、(プログラムを)書ける程度が普通の人じゃないほど非常に優れていたので、だから周りの人でその部分(論文など)を書ける人が補ってでも、育てて行きたいと感じるような人でした。

——昨日、『Winnyの技術』の担当編集の赤嶋さんと話していて、「原稿をあんなに悲しそうにというか、辛そうに書く人を見たことがない」っていうふうに冗談めかして話されてました。今のお話をお聞きすると「なるほどなぁ」と思います。

平木:赤嶋さんはご存知の通り、本を書かせた張本人なわけですけれど、赤嶋さんの苦労は大変だったと思います。

■Winny裁判は「“ソフトウェアの開発”というものをどう捉えるかという話し」

——Winny裁判の推移は、平木先生はどのように見ていらしたんでしょうか?  金子さんが2004年に著作権法違反幇助に問われて逮捕され、裁判になるとなったときからのお話をお聞かせいただけませんか。

平木:これは基本的には“ソフトウェアの開発”というものをどう捉えるかという話しである、と捉えていました。ですから、裁判に関しても、その点を争点にする必要があるというので、私だけでは力が足りませんので、例えば(慶應大学の)村井先生ですとか、様々な方のご協力を頂いて、実際の裁判でもそれを主張していきました。それから、研究科の中でも、我々が開発するものは、良いものであればあるほど、世の中に対するインパクトがあるわけで、その世の中に対するインパクトをどうやって捉えていくのかというのを考えていく必要があり、そういった動きは以後、強まっていきましたね。

 私が一番残念だったのは、これだけのソフトウェアであれば、仕事として書いてくれれば、我々が守ることができた。仕事じゃない所で匿名で書いたので、残念ながら東大が組織として守ることはできなかった。それが非常に残念でした。

——私が金子さんと初めて直接お会いしたのは2009年の『第参回天下一カウボーイ大会』に登壇されたときでした。その後の打ち上げに金子さんがいらして、他大学のある先生も同じくそういう話を金子さんにされていました。論文をペンネームででも書いて学会発表してくれていれば、もっと金子さんをみんなで守れた、と。

平木:最初に(2ちゃんねる掲示板で)書いたときも、47(47氏)として匿名で書いてるんですけれど、趣旨としては“東大に来たんだけれど来たばかりで仕事が無いから暇だから書くか”というような感じで書いてるわけなんですよね。それは事実ではあったのでしょう。
 ただ、そうだったなら、たとえ対外発表については匿名でやるとしても、こういうものを開発するというのを東大の事業にしておけば、我々も完全に守れたと思うんですよ。そうすると、「ああいうことはいけない」という動きと、東大との戦いになるわけですね。それはそれで価値のあることですし。

——そういう動きになっていれば、ソフトウェアを改善して、正しく使えるようにすることもできましたよね。

平木:今回、ある意味ではこのWinnyのことで彼はかなりの長い時間を無駄にしたわけですけれど、その無駄にした責任というものは私としてはやっぱり強く感じています。

——その金子さんの天下一カウボーイ大会の発表のときは、ニューラルネットワークを“自分理論”で構築したプログラムを発表されてまして、動画でも公開されてますが、これが私なんかでは聞いていても全く解らないんですよ。

平木:それが、その“論文を書くのが大変だ”ということの裏面なわけですね。人に解るように説明するというのが、どうもあんまり得意じゃない。

——でもコードはちゃんと、すばらしく動いているわけですね。

平木:はい、実際に動くコードは作れると。

第参回天下一カウボーイ大会での金子さんの発表の様子(全編収録)

——金子さんは、今年度きちんと活動されていれば、分散コンピューティング分野の研究を進めていたことになるんでしょうか。

平木:そうですね。実際には、2012年12月からの仕事というのは、文部科学省の、俗称ですが、いわゆる次世代スーパーコンピューターのフィージビリティ・スタディ(フィージビリティ・スタディ=実行可能性調査)というプロジェクトがあります。東大では石川裕さんが代表者をしてまして、私もそれに加わっています。その中で、HPC(ハイパフォーマンスコンピューティング)のソフトウェアの開発をするということを始めて、ずーっともう、だいたい毎月1回くらいミーティングがあるんですけれど、(金子さんと)全部一緒に出てたという感じです。だからHPC関係者も、ついこの間まで一緒にやっていたあの金子さんが亡くなったのか、と非常に残念がっています。

——金子さんはもう、コードを一部書き始めていたんですよね?
平木:そうです。

(後編はこちらから読めます

●関連サイト
平木敬教授(東京大学 大学院理学系研究科教員情報Wiki)
 

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