今回取り上げるのは、2008年3月6日に開催されたスペシャルイベント「Apple Match 6 Event」。基調講演とは、Macworld ExpoやWWDCといった大きなイベントの核となる講演のことを指す。このイベントは講演のみで完結するものなので、厳密な意味では基調講演とは呼べない。この少し前からAppleは、イレギュラーなタイミングで大きな発表を行う場合は、この形式を採用することが増えてきた。
この講演のテーマは、「iPhoneソフトウェアのロードマップ」。エンタープライズ市場、つまりアプリの開発者や事業者に向けた内容であり、一般消費者には直接関係のない話がメインだ。しかし、Appleの現代史を語る上では、極めて重要な意味を持つ。そう、iPhoneの開発に大きく貢献した一人であり、後にティム・クックによってAppleを追放されることになるスコット・フォーストールが表舞台に立った日だからだ。
この日のジョブズは、まるでフォーストールのための「前座」のような立場だった。最初に登壇してこのイベントの趣旨を簡単に述べ、iPhoneのビジネスが順調に行っていることを述べると、あとはフィル・シラーとスコット・フォーストールに詳しい話をしてもらうと述べ、開始から3分も経たないうちにさっさとステージを降りてしまうのだ。
ジョブズからバトンタッチされ、続いて登壇したのはマーケティング担当上級副社長のフィル・シラー。シラーはこれまでも何度も基調講演の壇上に立った人物であり、Macユーザーの中ではおなじみだ。しかしこのシラーも、iPhoneソフトウェア(この頃は「iOS」という言葉はまだない)が着実に進化していること、また「Microsoft Exchange」に対応したことなどを手短に説明しただけで、15分ほどで壇上を退く。そしてシラーからバトンを受け取ったのがスコット・フォーストールだ。
フォーストールが説明したのは「iPhone SDK」、つまりiPhoneアプリの開発環境についてだ。フォーストールはiPhoneソフトウェアの開発に大きく貢献した人物であり、その意味では壇上に立ってSDKの解説をするのも不自然ではない。破格だったのは、その登壇時間。演説は45分近くにも及び、約1時間18分の講演の、実に6割り弱を占めた。事実上、このイベントのメインを張ったのは間違いなくフォーストールだった。
フォーストールは、iPhoneソフトウェアがOS Xをベースにしつつタッチ操作に最適化された構造であること、Appleが用意したSDKにより容易にiPhoneアプリを開発できることなどを、自信に満ちた様子で説明していった。すでにメジャーなソフトウェア開発企業がiPhoneアプリの開発に着手していることを明かし、実際にその企業の代表者を壇上に呼び、握手を交わしてスピーチを交代するという役目までやってのけた。本来、ジョブズが演じるような役回りを、当時はまだ上級副社長(シニアバイスプレジデント)ではなく副社長(バイスプレジデント)という肩書きでしかなかったフォーストールが、だ。
このことは、Appleの中でiPhoneに関するビジネスが極めて重要な柱として成長しつつあること、それに伴って開発責任者であるフォーストールの地位も飛躍的に向上していることを示していた。講演のメインを任せたという事実は、いかにジョブズがフォーストールを重用していたかを物語っている。この講演から間もなくしてフォーストールは上級副社長に昇格し、確固たる地位を確立していく。次期CEOの筆頭候補として目された時期もあったほどだ。しかし、この飛躍的な出世が彼を増長させたのか、フォーストールはほかのApple幹部たちとの確執を生んでいく。その結果、Appleがポストジョブズ後の新体制になって間もなく、事実上会社を追放されることになってしまった。天才的な開発者が甘受した短い春。このスペシャルイベントは、その季節の始まりを告げるものだった。
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