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南信州の廃村「大平宿」で昔の生活体験をした

大平宿の歴史をおさらい

 大平宿は木曽山脈のただ中、標高1150mの高原にある小さな宿場町だ。近隣にある馬籠宿、妻籠宿といった宿場町とくらべて、大平宿は非常にこじんまりとしている。何よりの違いが、馬籠宿、妻籠宿は観光地化されて多くの人々が訪れているのに対して、こちらは訪れる人も少なく住民もいない廃村であることだろう。

 中山道が通る木曽谷と飯田のある伊那谷の間には、駒ヶ岳を主峰とする木曽山脈が立ちはだかっている。木曽谷から伊那谷へと抜けるには、木曽山脈の険しい山中につけられた危険な小道を歩いて行くしかなく、両者を結ぶ安全なルートをひらくことはこの地域の人々にとって古くからの悲願だった。

 江戸時代中期の宝暦4年(1754年)、信濃飯田藩によって飯田から木曽谷の妻籠宿までを結ぶ大平街道がひらかれた。当時は飯田から木曽谷へと抜ける最短ルートだったけれど、それでも人間の足では道中のどこかで一夜をあかさなきゃならない。そこで木地師(木工職人)の大蔵五平治と穀商人の山田屋新七郎が飯田藩に願い出て、大平街道のちょうど中間に小さな宿場をもうけたのである。これが大平宿のはじまりだ。

元住民の方から提供してもらった、おそらく昭和20~30年代の大平宿の写真。今回泊まった深見荘の向かいにある下紙屋をうつしたもの。現在よりも道のアップダウンが大きく、また村の中は木々が少なくすっきりした印象だ

 江戸時代には元善光寺の参詣客が多く訪れ、そして時代が明治になり木曽谷に中央本線が開業すると、大平街道は物流の幹線となって大平宿のにぎわいは最盛期をむかえる。戸数は70戸をかぞえ、小学校や郵便局がおかれて、まるで山中に忽然とあらわれた別天地のようだったという。しかし大正12年(1923年)に辰野~飯田間を結ぶ伊那電気鉄道が開業すると、そのにぎわいも徐々に陰りをみせはじめる。

 太平洋戦争終結後の昭和38年(1963年)、大平街道の南に国道256号線が開通して、大平宿を通る物流が一気に途絶えてしまう。さらに昭和30年代からはじまったエネルギー革命で、村の主要産業であった炭焼きの採算がとれなくなってしまった。多くの住民が山深く気候が厳しい大平宿から麓へ移住していき、昭和40年代には最盛期の約半数にまで戸数が減少する。

こちらも元住民の方の提供写真。同じく昭和20~30年代に、村の入口に近い紙屋を撮影したもの。まだ石油へのエネルギー革命が起こる前だから、燃料のための伐採で山には地肌が目立つ。その後の植林と木炭需要の低下で、今じゃすっかり深い森になっている

 そして、昭和45年(1970年)。住民の総意として集団移住が決定され、大平宿は約220年続いた歴史の幕を閉じた。閉村後、この地を別荘地とする開発計画が浮上し、元住民を中心として反対運動が展開。開発計画は凍結されたが、一方で江戸時代から残された古民家を未来に残すため、「一般に開放して山村での生活を体験してもらい、活きた家として受け継いでいく」という全国でも非常に珍しい保存活動が行なわれることになる。

 現在、大平街道は12月上旬~4月中旬まで冬期通行止になるため、大平宿に一年を通して住んでいる住民はいない。残された古民家は15軒あまり、そのうちの9軒が一般に開放されて、雪のない時期にかぎり当時のままの生活を体験できる施設として運営されている。

村はずれにひっそり立つ集団移住記念碑。現在は南信州観光公社が大平宿の運営をしているが、今でも元村民の手で集落の草刈りや雪下ろしなどの管理が続けられている

集落内にある大平憲章碑と、昭和11年にこの地を訪れた斎藤茂吉の句碑。江戸時代からの風景を次代に引き継いでいくため、自然環境や歴史的風景の保全、自主的な管理をさだめた大平憲章が昭和57年に制定された。いわゆるナショナルトラスト運動の日本での代表例のひとつだ

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