週刊アスキー

  • Facebookアイコン
  • Twitterアイコン
  • RSSフィード

Intel CPU搭載ノートPCの快進撃はこうして始まった

Intel50周年、勤続30年のインテル常務が語る「Pentium M」と「Centrino」の思い出

2018年12月12日 07時00分更新

 1968年7月18日に創業し、50周年を迎えたIT業界最大の半導体製造会社、米Intel Corporation。創業当時はDRAM製造で躍進したものの競合との価格競争で追い詰められ、1985年10月にマイクロプロセッサー製造事業に本格シフト。結果、同社は今もなお業界のトップを独走している。

 半導体やPCに明るくない人でも、「インテルはいってる」(海外では「Intel Inside」)のキャッチフレーズはおなじみだろう。これまで同社はその製品はもちろん、上記に代表される効果的なマーケティング手法も数多くの耳目を集めてきた。PCだけではなくサーバー/データセンター市場における存在感も強く、最近では「5G」や「IoT」、「自動運転」、「AI」といった次世代を見据えた事業も手広く行ない、エンドツーエンドのデータカンパニーとして成長し続けている。

 今回は、その日本法人であるインテル株式会社(1976年4月28日創業)の執行役員常務 技術本部 本部長 土岐 英秋(どき ひであき)氏にインタビューする機会を得たので、日本側から見たIntel CPUの印象的だった思い出を中心に語っていただいた。

インテル株式会社の執行役員常務 技術本部 本部長 土岐英秋氏。

ベテラン常務に聞いた往年のIntel

――本日はこのような機会を設けていただきありがとうございます。Intelの歴史は非常に長いわけですが、土岐さんはいつ頃入社されたのですか?

土岐氏:私は1988年入社で、ちょうどIntel 386から486へ転換する頃です。印象深いのは「Intel Inside」(1991年5月から始まったロゴを用いたキャンペーン)から「Pentium M」(2003年3月から展開したノートPC向けCPU)あたりでしょうか。

Pentium M。

――1988年入社というと、アンディ・グローブ(3代目CEO)体制真っ盛りの頃ですね。

土岐氏:ええ、まだロバート・ノイス(初代CEO)も存命でした。もちろん、ゴードン・ムーア(2代目CEO)もいました。

――土岐さんがPCのCPUをご担当するようになるのはいつ頃になるのですか?

土岐氏:入社したときはデザインエンジニアでして、x86系よりもコントローラー系のほうの仕事が多かったです。その後、7年ぐらいしてからPCのほうに回ってきたときに初めにサポートしたのが「P54CS」(0.35μmプロセス製造のPentium、1995年に登場)でした。「MMX Pentium」(1997年に登場)のローパワー版のひとつ前のものです。その頃から担当はずっとノートPC向けCPUでした。

P54CSコアのPentium。

――ノートPC向けCPUというと、デスクトップPC向けとは当時から異なる部分が多かったのではないでしょうか?

土岐氏:そうです。そこからノートPC向けCPUの開発とサポートを続けていくのですが、印象的だったのはパッケージの変化です。デスクトップPC向けと比べるとノートPC向けCPUのパッケージの進化はバリエーションに富んでおりまして、毎回毎回違う実装方法でした。最終的には「BGA」に落ち着くのですが、それまでは試行錯誤していたのをよく覚えています。

――「BGA」は現在でも使われている規格ですよね。

土岐氏:デスクトップPCだとキャッシュが外付けだった「Slot 1」の頃、ノートPCではMMCというモジュールの形でキャッシュとCPU、ノースブリッジのチップセットを1枚の板に入れ、それをカードのソケット経由でマザーボードにコネクトするという機構のものが出てました。あれが確かPentium II(1997年に登場)の頃です。

――今では多くのノートPCのCPUはSoCが当たり前で、キャッシュどころかチップセットも内蔵してますよね。改めてCPUの歴史は「Integrated」(機能統合)の歴史なのだと感じます。

土岐氏:その通りです。その後、「Pentium III」(1999年に登場)でようやくキャッシュが内蔵されるのですが、当時はそれをモノシリックのシリコンで実現できたというのが画期的でした。その後、確か1GHz戦争に突入するはずです。「Pentium 4」(2000年に登場)が出てきて、NetBurstアーキテクチャーで高クロックになり、発熱も高くなっていったのを覚えてます。

どこのPCメーカーからも喜ばれた「Pentium M」

――2000年以降のノートPC向けCPUですと、どのCPUが思い出深いですか?

土岐氏:やっぱりそれはBanias(読み:バニアス)こと、Pentium M(2003年に登場)です。初めてお客さんにBaniasを紹介しに行った時のことをまだ覚えているのですが、PCメーカーさんはどこに行ってもみなさん喜ばれておりました。

――それはすごいですね。

土岐氏:「これだよ!欲しかったのは!」と、どこの会社に行ってもそう言われました。あの頃はちょうどPentium 4をどうやってノートPCの中に押し込むかという話になってました。しかし、発熱が高くて、もたもたしているとTDPも35Wや40Wになるぞという話で、1回薄くなったのにまた厚くなっていっておりまして……。ラップトップのようなぶ厚いノートPCになっていたのです。そのため、PCメーカーさんは設計で非常に苦労なされてました。もちろん、Intelとしてはモバイル製品としてチューニングして出したPentium 4なので、「なんとかうまく使ってください」とお願いしていました。

――NetBurstはクロックを上げて性能を上げるぶんには優秀なアーキテクチャーでしたが、ノートPCを設計する上では厳しめだったのですね。

土岐氏:そんな時ですから、Pentium Mを持って行って、「TDPは24.5Wでパフォーマンスはここまで出ます」と紹介した時のお客さんの喜びようは嬉しかったです。「これでようやく素晴らしいノートPCが作れる!」と言ってくださったのを、今でもよく覚えております。

――確かにPentium Mで一気にノートPC市場が活性化したイメージはありますね。ほかに、思い出深いCPUはありますか?

土岐氏:Pentium Mの後ですと、2006年に登場したCore DuoとかCore SoloのYonah(読み:ヨナ)も良かったです。Core Duoは初のデュアルコアだったのですが、32bit CPUでした。当時64bit CPUがさまざまなところで出始めており、若干Intelは64bit CPUに二の足を踏んでいたのです。

YonahことCore Duo。

――それはなぜだったのですか?

土岐氏:その時にムーリー・エデン(Pentium Mの開発責任者)が言った言葉をよく覚えているのですが、「64bitで動作するアプリケーションはすぐには普及しないだろう。そんな中でノートPCで64bit CPUを載せたとして、誰が使うんだ?」と。PCメーカーさんともその話は何回もしておりまして、先方もそこは重々ご理解なされていました。おそらく今すぐ64bit CPUをノートPCに入れても、OSは32bitバージョンがインストールされ、メモリーもどうせ4GB以上載せないと。そして、アプリケーションも32bitのものがほとんどだと。

――64bit動作のアプリケーションの普及は確かに遅かったですよね。

土岐氏:今すぐ得られる64bitの利点なんてないのに、64bitのレジスターセットをサポートしているやたらサーキットのでかいモノになってしまうんです。「そんなモノを本当に欲しいのか?」と。ずいぶんとそういうお話をムーリーはPCメーカーさんと直接しておりました。

――ムーリーさんはずいぶんとリアリストだったのですね。

土岐氏:確かにムーリーが主張した通り、結局のところ、32bitから64bitにソフトウェア環境が移ってくるのはそれからずっとあとでした。しかし、当時は64bit CPUというのはエンドユーザーさんからすると、CPUの周波数が上がったりだとか、コアの数が増えたりだとかと同じような感じで、32が64になって倍になったというイメージが「なんとなく良さそう」と思われていた時代でした。

――で、エンドユーザーさんの意を組んだPCメーカーさんが64bit CPUを求めるわけですね。

土岐氏:そこはだいぶPCメーカーさんも64bit CPUの現状の意味の無さを知っているだけに、苦しいところだったと思います。「新しいものがイイもの」という販売の仕方をこれまでしてきているわけですから、エンドユーザーさんに「今は32bitでもいいんですよ」とはなかなか言えないのです。64bit CPUをエンドユーザーが求めていたら、とりあえず64bit CPU搭載PCを出すしかないという感じでした。「ムーリーさんの言ってることはわかります。しかし、市場が欲しいと言ってるのは64bitなので……」と。

――あの頃の「準備はできてないけど、とりあえず64bitを流行らそう」感は覚えてますね。僕も当時、「64bit OSで使いたいフリーソフト」みたいな特集を作れと言われて、いざ探してみたら「現状ほぼ存在しない」ということがわかってすごく困った思い出がありますね。

土岐氏:そういったことがあった中でのYonahなのでよく覚えているのです。YonahはBaniasと比べると機能的な意味合いでは実はそこまですごくないのですが、ひとつ上のプロセスを使ってデュアルコアをノートPC向けに作ったところが画期的でした。そしてその後、Intel CoreのYonahからIntel Core 2のMerom(読み:メロム)に変わっていきます。

MeromことCore 2 Duo。

――Meromも2006年に登場し、時代はいよいよCore 2 Duoへ移るのですね。

土岐氏:このMeromの時にびっくりしたのは突然「コンバーチドコア」と言い出して、最初は何を言っているのかわからなかったんですが、「デスクトップPCとノートPCのコアが同じコアになります」と言われて、「ああ、そういうことか」と得心しました。つまり、Meromの時にBanias系統のアーキテクチャーがそのまま順調に進化し、デスクトップPC向けとノートPC向けの両方で使えるコアが出てきたわけです。実は以前も同じものを使っていたのですが、Pentium 4登場以降はNetBurst系とPentium MのBanias系と2つに分かれてしまったので。それがMeromでまたひとつの系統にまとまったんですね。

――むしろPentium 4世代が異例なんですね。

土岐氏:当然、Meromのときはデスクトップでもガンガン使えるようにと64bitをサポートし、機能拡張もすごく、アーキテクチャー的にも相当頑張ったはずです。パフォーマンスもかなり上がりました。そして、そこからCore 2 Quadになっていくわけです。

――Core 2 Duoが出たのは2006年7月で、同年11月にCore 2 Extremeが初のクアッドコアCPUとして出て、翌年1月Core 2 Quadが出ましたよね。で、一気に市場は4コアCPU合戦に突入すると。

土岐氏:そうです。その後はもちろん、ノートPCでもハイエンドは4コアのものを出していくのですが、やはりメインストリームは2コアでハイパースレッディングでロジカルの4コアを動かせるというのをずっと続けてました。また、プラットフォーム戦略の中で、vProとかセキュリティーの強化などをあれこれとやり始めました。Wi-Fiが入ってきましたので、接続性の部分が結構なチャレンジでした。

――というと?

土岐氏:CPU内蔵GPUもそうでしたけどね。一番初めにCPUに統合した時のドライバーがイケてなかったのです。あれで動かすのがすごく大変で、PCメーカーさんからはブルースクリーンで止まるだのブラックスクリーンで止まるだの散々言われました。最終的には結構粘って生き残り、現在ではCPUの中の大部分を内蔵GPUが占めております。

この記事をシェアしよう

週刊アスキーの最新情報を購読しよう