小林久
ASCIIブランド シニアディレクター
(元月刊アスキー編集部)
「月刊アスキーが創刊してちょうど40年経ったから、なんか書くべし!!」
というふわっとした指令がみやの編集長から降りてきました。う~ん。
私がアスキー編集部に配属されたのは20代の終わりで、2003年~2005年ごろです。ちょうど編集長が遠藤諭さんから石坂康夫さんに代わるタイミング。期間はたかだか3年ほど。長く感じてましたが、いま思うとかなり短いですね……。
パソコン誌には厳しい時代だったかも
当時がどういう時代だったか。2000年前後から始まったADSLでブロードバンドが一気に普及し、日本でもドットコムバブル→Web 2.0みたいな流れに突入した時期。並行して手元のケータイでインターネット接続できる世の中がきて、パソコンの仕組みをそっくりそのまま取り入れた情報家電も現れました。ミクシィなど初期のSNSも立ち上がった時期でもあります。コンピューターと言われるデバイスや、そのためのサービスが大きく変化したタイミングでした。
ただ、IT業界はいま思うと端境期で、月刊アスキーのような雑誌には難しい時期でした。魅力的なハードの新製品やそのための新技術が次々と出て、その中身を細かくやればやるほど売れ行きが伸びるという、それ以前のやり方が通用しにくくなり、編集者も毎号迷いながら雑誌を作っていたように思います。
次にくる「大きな変化」の助走期間だったのでしょう。業界の関心はハードやパッケージソフトから、オンライン上のサービスに移行しつつありました。海外では招待制の「Gmail」や「iTunes Store」の音楽配信が始まっていたけれど、「Google マップ」「Facebook」「Twitter」などはまだ先で、クラウドサービスも「ASP」や「SaaS」などと呼ばれていたころです。
これらのサービスをみんなが使うきっかけになる「iPhone」や「Android」の登場はそこからさらに数年先です。
当時の編集部は初台から信濃町の駅ビルに移ったばかり。駅前の歩道橋を渡って、よく神宮外苑を散歩しました。実はこの歩道橋、某アニメ映画の重要なシーンで何度も出てくるスポットで、ついでに言うと、徹夜ついでに散歩しながら立ち寄った新宿御苑のカフェ・ラ・ボエムも、その主人公がバイトしている場所だったりします。12時過ぎてもやっていて、当時としては珍しく無線LANまで飛んでいる店だったので、私みたいな編集者には都合がいいところでした。
たいていは原稿書きが煮詰まって際に逃避してた場所です。当時の編集部では非常識なことがよく起こっていましたが、映画を観ると、当時の記憶がよみがえるため、なかなか集中できません(笑)
8ビット機、そしてMSXの洗礼を受けてアスキーへ
私がアスキーを知ったのは、1982年です。親戚(伯父)が近所のダイエー(いま考えると驚く)で、富士通の「FM8」を買ってきて、そのすぐ横に「月刊アスキー」や「FM-8プログラムライブラリ」(テープ付きの書籍)が置いてありました。
パソコンを買う目的はホビーだったり、ゲームだったり、人によっては仕事だったり、様々ですが、普通の人が8ビットのパソコンを買い始めた時期です。我が家にも1984年の頭にMSXがやってきました。
月刊アスキーの内容は小2の私にはまったく理解できず、アスキーらしいというと、その後読み始めたパソコンゲーム誌の「ログイン」や「MSXマガジン」を思い浮かべてしまいます。月刊アスキーに対するイメージは、なんとなくアカデミックな感じのする「難しい雑誌」。伯父の部屋には、科学雑誌の「ニュートン」なども置かれていました。(実際はどうか分かりませんが)世間では、当時注目を集めていたサイエンス雑誌などと同列に認識されていたのかもしれません。
ちなみにみやの編集長はちょうどこの時期に、月刊アスキーの編集部にやってきたそうで、最初は富士通のパソコンを使いながら、プログラムの移植作業をしていたそうです(当時は同じBASICで書いたプログラムでも機種やメーカーごとに方言のような違いがあり、修正の必要がありました)。FM8ではフリートコマンダーやマスターマインドといったシンプルなゲームを遊びましたが、このプログラムもそういう風にして移植されたゲームだったのかもしれません。
月刊アスキーの創刊後は……
アスキーというと、マニアやオタクなイメージを持つ読者が多いと思います。実際作り手にはそういう人が多く、変人も多いので、たぶん正しいと思います。
しかしアスキー編集部に異動してほどなく、言われたのは「ホビーじゃないことを目指したのが、月刊アスキーとほかの雑誌の違い」ということでした。
アスキーの創業誌である月刊アスキーが出た1977年は、Apple IIが米国で発表になった年です。Apple IIは「世界で最初に普及したパソコン」と言ってもいい機種なので、アスキーの歴史はそのままパソコンが普及して、世の中が変わっていく過程と重なることになります。
創刊号には有名な「ホビーとの訣別」という言葉があります。いま改めて創刊当時の月刊アスキーを眺めてみると、扱っている題材は、機械翻訳、音声認識、人工知能、そしてコンピューター犯罪など。21世紀のいま私たちが目の当たりにしているのと、ほとんど同じだったことが分かります。
そこには驚きもあるのですが、視点を変えると、これだけ進化の速いIT業界でもこういった技術や概念が現実のものになるには40年の時間が必要だったということでもあります。アイデアがあっても実現できない期間が何十年も続いていたし、(創刊から25年以上も経っていた当時でも)自動翻訳や人工知能は、やりたいけど無理なことの典型例みたいに思われていました。
パソコンが本当に普及するようになったのは、普通の人同士がメールやSNSで連絡を取り合ったり、情報交換するコミュニケーションの道具になったからです。そしてその結果、ブレークスルーが起きたのは、世界中のパソコンがインターネットにつながり、膨大な情報とデータが集まり、自由に処理できるようになったからです。
私が月刊アスキーにいたのは、まさにその下地ができあがろうとするタイミングでした。決定的なピースが欠けていて、それが変わる前のタイミングでした。けれど、業界の水面下では、変わるためのための条件が着実にそろいつつはじめていました。そう思うと、ちょっとだけ感慨深いですね。
月刊アスキー創刊40周年号はASCII倶楽部でお読みいただけます
復刻版について
月刊アスキー復刻版は、当時出版されたものを、そのまま再現しており、広告等も、当時のコンピューター業界を知る手だてと考え、そのまま収録しております。また、記事および広告における住所・連絡先等は、誤用防止のため削除しております。ご理解の上、ご利用いただけると幸いです。
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