根岸智幸
ポケモンGOトレーナーTL39(https://twitter.com/zubapita)
(元アスキー編集部/インターネットアスキー編集長/アスキーPCエクスプローラー編集長)
そこは、嵐が通り過ぎたあとのような場所でした。大企業の整然としたオフィスしか見たことのない僕の目には、あらゆるものが乱雑に積み上がってごちゃごちゃした空間は、正直ゴミ箱をひっくり返したようにしか見えませんでした。
でもそこが、毎月お洒落な表紙でパソコン関係のクールな最新情報を発信していた月刊アスキー編集部のオフィスだったのです。
「午前10時に来るように」と言われてきたにもかかわらずに、編集部にいたのは事務の女性2人だけ。仕方ないので、ミーティングテーブルに積まれた雑誌やマンガを読んだり、編集部の中をうろうろして過ごしました。気がついたのは、当時最新鋭の32bitパソコンであるNECのPC-9801Raが、贅沢なことに机に1台ずつあること。しかも、キーボードはアスキー製の親指シフトキーボードに替えられていました。さらに、編集部の奥の約3分の1は別世界のようにキレイに整頓されており(デザイナーのエリア)、そこには1台100万円以上もする32bitスーパーマシンであるMacintosh Ⅱが2台、さらに300万円はしたApple製レーザープリンタまでありました。
凄い。当時、日本最大手の開発会社(今でいうSIer)であるCSKの社員として、これまた一流企業であるJTBのコンピューターセンターに常駐していた僕ですが、CSKもJTBもひとつの部署に16bitパソコン1台という時代でした。それが、この散らかりまくった編集部では、ひとりに1台最新の32bitパソコンがあてがわれていたのです。
結局、僕に「午前10時に」と指定した上司らしき人が現れたのは午後遅く、というより夕方に近い時刻でした。へらへらと笑いながら、ミーティングテーブルで世間話をはじめたゆるい感じのオジさんこそ、当時月刊アスキー副編集長だった遠藤諭さん(その後編集長。現・角川アスキー総合研究所 取締役主席研究員)でした。さらに後から、「ねぎやん来てるのー?」と異様に通る大きな声で、ポロシャツを来た巨大な人が明るく賑やかに登場しました。この人は当時月刊アスキーデスクだった宮野友彦さん(現・週刊アスキー編集長)。以後、僕はこの2人を師として長きにわたってアスキーでさまざまな雑誌作りに関わることになります。
ちなみに月刊アスキー編集部の正式名称は「アスキー編集部」でした。最盛時のアスキーには、20かそれ以上の編集部があったと思いますが、アスキーの出発点となった月刊アスキーの編集部の名称は「月刊アスキー編集部」ではなく「アスキー編集部」でした。
このアスキー編集部での生活は、驚きの連続でした。とにかく時間にルーズ。服装もルーズ。経費も使い放題(怪しい領収書は、上の階から経理のオジさんがやってきて問い詰められたこともありますが、結局は通してくれたり)。仕事はだいたい夕方頃から始まり朝方まで。僕の臨席だった野口さん(のちのDOS/V ISSUE編集長)は、夜が深まると突然浴衣に着替え、大きなワイングラスに赤ワインを注いで飲みながら仕事をしたり、かと思うとマシンルームという名のバイト部屋で奇声をあげながらX68000でパロディウスなどを戦っていました。
こんなルーズで自由な編集部でしたが、仕事に対する姿勢は非常に厳しかったです。月刊アスキーはスタッフライティング制で、特集、ニュース、新製品レビューの記事の多くを編集者が自分で書いていました。編集者でありながら、実際には記者としての側面が強い仕事でした。
僕は文章には昔から自信がありましたし、ましてや中学生の頃から愛読していた月刊アスキーの記事なので、自分にもすぐ書けると思っていました。しかし、実際には頭で思い描いていたクールで専門的な文章は、宮野さんに真っ赤に朱を入れられて何度も突き返されました。読者のときは、月刊アスキーは専門的な情報を専門家向けに書いていると思っていました。しかし、実際に編集部が目指していたのは、最新の情報を初心者にもわかりやすく伝えることだったのです。僕も試行錯誤の末、数ヶ月で月刊アスキー流の文章術を身につけましたが、その後、別冊アスキーで長らく一緒に仕事をした小黒さん(=KAWARAさん aka チクワソックスP)に、「アスキー編集部の文章は非常にシステマチックで、簡単にブロックの移動や削除ができて編集が楽」と感心されました。
この「別冊アスキー」とは、アスキー編集部から刊行された初心者向けパソコンガイド「別冊アスキー パーソナルコンピュータガイド」シリーズのことです。遠藤さんが始めたプロジェクトで、当初の編集作業の多くは遠藤さんの友人の小形克宏さんが担当していました。小形さんは伝説のマンガ雑誌「漫画ブリッコ」の編集者だった人です。別冊アスキーは、アスキー編集部の製品でありながら、月刊アスキーとは真逆の一般誌と同じ作り方でした。当時の月刊アスキーの編集者はパソコンのプロフェッショナルで、正確な記事作成に長けていましたが、一方で本来の編集者的な仕事については、デザイン制作スタッフに助けられていました。一方で、一般誌の編集者がパソコンの記事や本を作ると、まだパソコンが一般的ではなかったので、不正確でめちゃくちゃな説明になってしまう時代でした。別冊アスキーは、一般誌のノウハウを持つ小形さんや小黒さんなどが記事の企画や制作進行に腕を振るい、アスキー編集部が技術や機材でバックアップするという点で、ある意味理想的な取り組みでした。おかげで僕も外部のデザイナー、ライター、漫画家さんたちと付き合いながら、一般誌的な雑誌作りのノウハウも学べました。
この別冊アスキーには、ライターの法林岳之さんなど月刊アスキーよりもさらに濃い面々が集まり、その後「第一雑誌編集部」として独立しました。独特の梁山泊的雰囲気の中から、日本初のハードウェアチューニング専門誌「PC98バリバリチューニング」などの独自企画が生まれました。毎日がワクワクに満ちた、夢のように楽しい日々でした。
月刊アスキー創刊40周年リレーコラムは 明日も公開の予定です!!
復刻版について
月刊アスキー復刻版は、当時出版されたものを、そのまま再現しており、広告等も、当時のコンピューター業界を知る手だてと考え、そのまま収録しております。また、記事および広告における住所・連絡先等は、誤用防止のため削除しております。ご理解の上、ご利用いただけると幸いです。
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