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月刊アスキー創刊号読者から編集者への道

2017年06月19日 12時00分更新

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古谷野和彦
(元月刊アスキー編集部)

 月刊アスキー(アスキー出版)の存在を最初に知ったのは、まさに今回復刻となった創刊号。当時、大学の生協には相次いで創刊されたPC関連の雑誌が平積みになっていて、毎号買っていたのは、1976年に創刊された「I/O」(アイオー)と翌年創刊の「月刊アスキー」の二誌(「I/O」は創刊号を探していた中央大の学生に創刊から数年分を譲ってしまいましたが、月刊アスキーは創刊から1年分くらいはまだ手元に残っています。ソノシートの付録「THE FLOPPY ROM」も!)。印象としては、アスキーのほうが尖がった感じでした。

 創刊前後は、カンブリア紀を想わせるくらい自作派には夢にあふれた時代で、ワンボードマイコンでは、米MOS Technology社の『KIM-1』(MOS 6502)や、国内では日本電気の『TK-80』(μPD8080A)がメジャーどころ。プロセッサではMOS 6502やIntel 8080、MC6800などの有名どころのほか、8bitでは独自アーキテクチャの米National Semiconductor社の「SC/MP II」、米Fairchild Semiconductor社の「F8」などがあり、東芝は12bitの「TLCS-12A」をリリースしていました。

創刊2号目はあこがれのBASIC特集です

 当時は貧乏学生で、とてもキットの『TK-80』は買えなかったため、CPUとメモリ、周辺チップを別々に購入し、米MITS社の『Altair680』や、米IMS Associates社の『IMSAI 8080』のような全面パネルにLEDとスイッチの列が並んだコンピュータを目指し、自分で回路図からパターンを起こして、自作にチャレンジしていました(今でいう自作とはだいぶ異なりますが)。i8080や周辺チップのデータシートを、調布にあった日本法人ができたばかりのインテルジャパン(株)に直接もらいにいったことがあるのですが、それがアパートの一室で、対応してくれた方が後に取締役になっていたのには驚きました)。

 月刊アスキーが創刊されたころ、調布にはインテルジャパンのほか、米Tandy Radio Shack社の店舗があり、8bitパソコン『TRS-80』(i8080)を販売していたのですが、やはり高価だったため短波受信機のキットなどで我慢。そのころ、米Apple Computer社が『AppleII』をリリースしてからは、日本でも互換基板と、ROMやソフトの違法コピーで急速に広まりましたが、周辺機器まで揃えようとするとそれなりの金額になるので、やはり手が出ませんでした。AppleII互換機で面白かったのは、高級オーディオばりにサイドウッドが付いている互換機があったことですね。

創刊の翌1978年の11月号はTRS-80が表紙を飾りました

 その数年後から、国内では、多くのメーカーがさまざまなパソコンを発売し、百花繚乱となったのは、ご存じの方も多いと思います。

 その隆盛とは逆に、わたしの心の中でパソコンは趣味の一つに過ぎなくなり、SF小説や映画、古書にのめり込むようになりました(古書以外は編集者になってからも役に立ちましたが)。ちなみに当時自宅で使っていたマシンは、富士通の『FM-7』(Z80カードを追加)、同『FM-11EX』(MC6809+8080にZ80カードを追加)、NECの『PC-100』(V30換装)、米Atari社の『Atari800』、米Commodore社の『Commodore64』、『Amiga 1000』(MC68000)などで、これもその後の編集者としての礎になった気がします。

週刊アスキー特製「パソコン銘機トランプ」より


 月刊アスキー創刊の10年後、組版システムの開発会社を辞めてフリーになり、出版社やリサイクル関連の仕事で糊口をしのいでいたとき、後の編集長の遠藤さんと共通の知人に誘われてアスキー編集部に遊びに行き、そこでスタッフとして仕事をしないかと話があったのが入社のきっかけです。当時の編集長は土田さん(現・インプレス取締役会長)でした。そこで記事作成のためのデータ収集からちょっとしたライティングなどを経て、1986年の11月、こっそり正社員募集に応募したのですが、編集部には当然バレバレで、面接のすぐあとで土田編集長から「知らないわけないだろう」との一言。

 印象的だったのは、面接のときに、塚本さん(現・インプレスホールディングス・ファウンダー/最高相談役)から最後に質問された「コンパイラを作れますか?」だったので驚いたことをはっきり憶えています(編集志望で応募したからですが……)。

 12月に入社が決まったあとは、井芹さん(現・インプレスR&D代表取締役社長)との面談があり、ミニコンやワークステーションベースの組版システムのプログラマだったことから、アスキーの組版システム(現在のEWB)を開発している部署への配属の提案もあったのですが、競業の仕事を禁止する前の会社との契約期間が残っていたことと、編集部の人員が不足したときだったこともあり、アスキー編集部への配属となった次第です。

 アスキー編集部では、最新の極秘情報や未発表のコンピュータや周辺機器に好きなだけ触れられ、それをもとにやりたい企画を立て、記事にする仕事ができたのは、非常に恵まれたことだと思っています。そのころアスキー社内では、各種システムにUNIXが使われており、入社とともに社員にはアカウントが割り振られ、UUCPで海外にも電子メールを送れるなど、他社より進んだネットワーク環境も特筆できることでしょう。

 入社して編集部に配属になったとたん、生活のリズムが夜型に変わり、収入も減って生活苦になったのですが、毎日夕食や夜食が出ていたので、なんとか生活できたという、なつかしい思い出もあります。

月刊アスキー創刊40周年リレーコラムは 明日も公開の予定です!!

復刻版について

月刊アスキー復刻版は、当時出版されたものを、そのまま再現しており、広告等も、当時のコンピューター業界を知る手だてと考え、そのまま収録しております。また、記事および広告における住所・連絡先等は、誤用防止のため削除しております。ご理解の上、ご利用いただけると幸いです。

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