震災でも戦災でも焼けなかった「奇跡の建物」
── そもそもなぜ旧渋沢家住宅を移築することになったんでしょうか?
若林 もともとは越中島の技術研究所が狭くなってきたので、「第二研究所」のための土地を探していたのがNOVAREの始まりです。それと並行して、青森に移築されていた旧渋沢邸の所有者から売っていただけるという話が出てきました。そこに、第二研究所の敷地として潮見の広い土地が購入できることになり「それならここに移築すればいいんじゃないの?」と話がふくらんでいったという経緯でしたね。
── 偶然が重なった感じですね。以前はなぜ青森に移築されていたんでしょう?
若林 旧渋沢邸は昭和21年に渋沢家が当時創設されたばかりの財産税として国に物納し、木造のまま中央省庁共用の「三田共用会議所」として使われていました。それが平成のはじめに老朽化のため建て替えられることになり、渋沢栄一の執事を務めていた杉本行雄さんという方が、払い下げを受けて、自身が経営していた青森県六戸町の古牧温泉という温泉旅館の一角に移築したのです。古牧温泉はもともと渋沢農場という、農地解放を進めた農場でした。そこで財を成した杉本さんが跡地に温泉を作り、東京から旧渋沢邸を移築したというわけです。
── その後所有者を点々として、御社が所有したと。よく建物がもっていましたよねえ。
若林 一番古い建物は明治時代ですが、関東大震災でも壊れず、戦時の空襲でも焼けなかった。焼夷弾が一発落ちたにもかかわらず、近所の人がバケツリレーで消してくれたそうです。さらに共用会議所の建て替えの際にも杉本さんによって救われたまさに「奇跡の建物」と言えると思います。
── 奇跡の建物が東京に戻ってきたと。移築作業は大変だったんじゃないですか。
若林 東京からも大工を派遣して、2万本もの部材を一つ一つ丁寧にばらしてこちらに持ってきています。丸1年かけて、1本ずつ手作業で取り外していきました。今年6月に再築工事が完了し、現在、文化財の指定変更手続きをしています。まだ一般の人を入れることはできません。
── というと?
若林 いまは文化財としては「旧渋沢家住宅(部材)」という状態なんです。2万本の部材をどこにどう使ったかを明らかにして、建物としての文化財として認められれば、建築基準法の適用除外の要件を満たすことができます。
── なるほど、実際には建っているものの、文化財としてはまだ“部材”扱いなんですね……。組み立てにはどれだけかかったんですか?
若林 2年8ヵ月です。ここは支持地盤が地表から60メートルくらいのところにあるので、杭を打って人工地盤をつくり、その上に建物を再築したので基礎工事に時間がかかりました。また、文化財である部材を保護するため素屋根という仮設の覆いを架けてその中で作業をしたのです。
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