コミュニティマーケティングの総合イベント「CMC_Central 2024」の中でひときわ注目を集めたのが、クラスメソッド代表取締役社長の横田聡氏、さくらインターネット代表取締役社長の田中邦裕氏が登壇した「企業トップが語る、ビジネスとコミュニティの掛け算を実現する秘訣【経営者視点】」。コミュニティに精通してる2人の経営者が考えるコミュニティ観とは?
巻き込まれて、多様な人をまとめあげてきた横田氏のコミュニティ原体験
AWSのインテグレーターとしてグローバルでも高い評価を得ているクラスメソッドと、インターネット黎明期からITインフラを中心に戦い続けてきたさくらインターネット。両者のトップが経営者目線でコミュニティを語るということで、会場はもちろん満員だ。
引き出しが異常に多い2人のパネルのモデレーターを務めるのはウイングアーク1stのユーザーコミュニティ「nest」でコミュニティディレクターを務める河村雅代氏。「緊張しています」と第一声を挙げたが、クラウド業界のリーダーがそろい踏みしている壇上を見れば、「さもありなん」と感じる。
河村氏は、まず「運営して2年もすれば、どうやってコミュニティの価値を経営に説明していこう壁に当るコミュニティマネージャーも多いと思います」と課題を共有。とりあえずコミュニティを作ろうスタートしたものの、運営していく中で、どのようにコミュニティの価値を経営に理解してもらうかで悩むコミュニティマネージャーに経営者目線でヒントを得るのがこのセッションの趣旨になる。河村氏が会場に聞いたところ、実際のコミュニティマネージャーも参加者が圧倒的だった。
続いてクラスメソッドの横田氏から自己紹介。東京都稲城市出身で、中・高・大ともバトミントン部。パソコンが好きが高じて、パソコンが学べる大学に進学し、大学院を出た後になにを血迷ったかスタートアップのお手伝いをしていたら、いつの間にか会社を作っていたという経緯だ。なんと登壇日の翌日が創業20周年とのことで、会場からも拍手が沸き起こる。
コミュニティ歴としては、小中高でクラスの学級委員を務めていたという。「エリートではないんです。じゃんけんで負けて学級委員になったのですが、やってみたら面白くて、中高もなった。『巻き込まれて、多様な人たちをまとめあげなければいけない』という体験がコミュニティとの最初の出会いで、その後の起業にもつながっている」とコメントする。
横田氏は、実はコーチング歴も長い。バトミントン部も好きが高じて大学の時に高校生のコーチをやっていたし、家電量販店の店員育成も担当したことがある。「1000人とか育成するんですよ。しかも、大学生、フリーター、社会人も混ぜ混ぜで」(横田氏)。パソコン好きということで、パソコンの研修もやっていたという。
エンジニアコミュニティとしては、25年ほど前にApache Jakartaプロジェクト(懐かしい!)への参加がきっかけ。20人くらいのコミュニティだったが、毎回オフラインだった。そのときのよい経験があって、起業直後の2005年にAdobe Flexのコミュニティを立ち上げる。このときに当時アドビだったコミュニティマーケティング協会の小島英揮氏と知り合っているという。
その後、Adobe Flexのコミュニティは、1000人くらいの規模に拡大し、勉強会も300回近く開催したという。「ベンダーサイドではなく、デベロッパーサイドのコミュニティとしてやっていました。そのときの経験があり、小島さんがAWSに転職するときも、なにかやりますよとしたり顔でお手伝いすることにした」とのこと。これがもちろんJAWS-UGだ。
ただ、JAWS-UGに関しては、リーダーとしてコミュニティを運営したというより、「半歩下がってコミュニティがうまく回るようにサポートする」ような役回りだったという。たとえば、宴会予約担当。「私はあまりお酒飲まないんですけど、宴会場を予約するという役を毎月のようにやっていました。これは狙いがあって、参加者に顔と名前を覚えてもらえるのがよかった」と横田氏は振り返る。現在もDevelopersIOやZenn、地元の自治会の役員などを務めているという点で、生粋のコミュニティ人と言える。
オープンソースのコミュニティから入った田中氏とさくらインターネット
続いて、実は横田氏と同じ歳だったという田中氏。中学生のときからパソコンとロボットが好きで、舞鶴工業高等専門学校(高専)に進む。「そのときロボットを作るのも楽しかったんですけど、自分の作ったCAD/CAMシステムに保存したファイルをほかのコンピューターでも開けるのがすごいと思った。裏にはサーバーがおるらしい」とのことで、サーバーの方に興味を持つ。
結果として、高専生の頃からサーバーを触りまくり、LinuxやFreeBSDに触れていたのがティーンエージャーの頃。「私、(身長が)188cmあるんですけど、親が191cmだったからこうなったわけで、運動ができるわけでもない。自分で言うのもなんですが、陰キャ生活でした。でも、高専生のときにサーバーに出会って、これからはサーバーだと」と田中氏。当時はWWWが勃興し、Apacheのサーバーを立ち上げていたが、学校で勝手に立ち上げたのを怒られ、外でサーバーを構築すべく、当時18歳の田中氏が立ち上げたのがさくらインターネット。1996年のことだ。
起業前の田中氏はApacheユーザー会を立ち上げたコアメンバーでもあり、技術コミュニテイの運営や交流、オフ会の企画などを手がけていた。「PHPIのユーザー会の立ち上げにも関わっていたので、私にとってのコミュニティの始まりはオープンソースでした」と田中氏は振り返る。1998年に高専卒業後、さくらインターネットを株式会社化し、その後日本のインターネットとともに成長してきた。
現在はソフトウェア協会(SAJ)会長、日本データセンター協会(JDCC)理事長、日本インターネットプロバイダー協会(JAIPA)副会長などの要職を務めているほか、経産省の未踏プロジエクトのプロマネも務めている。「(業界団体のような)マーケティングよりじゃないコミュニティに所属していることが多い」と語る。
そんな田中氏がリードしてきたさくらインターネットだが、ここまで来るのに紆余曲折だったのも事実だ。「『Web 2.0』が流行っていたときは、ミクシー、グリー、サイバーエージェント、はてな(敬称略)などがお客さまだったので、急速に伸びて上場できました」(田中氏)とのことで2005年に上場したものの、その後データセンターバブルが起こり、業績が厳しい状況に。2015年からはディープラーニングやブロックチェーンのブームが来たことで再び巻き返したが、今度はAWSなどのパブリッククラウド進出の影響をもろに受けた。
だが、2020年頃からは、国産クラウドのニーズの高まりやガバメントクラウド、GPU需要の拡大などがあり、再び成長路線を進んでいる。「ちなみに私は上場したのが27歳で4番目に若いんですが、2009年に最速債務超過ランキングの4位にもなっています(笑)。若い頃から会社を作って、28年やっていますが、けっこう失敗も多いので、えらそうなことは言えませんが、よろしくおねがいいたします」と自己紹介を締めた。
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