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ボクらの秋葉原をさかのぼっていくと秋葉三尺坊という人物にたどりつく

2022年05月23日 14時00分更新

秋葉三尺坊は国民的なスーパーヒーロー!

 火防の神として広がっていた秋葉神社だが、全国にどのくらいあったのかというと『火防 秋葉信仰の歴史』(後述)に、「江戸時代初期から中期にかけて突如全国に広まった流行神の典型」とあり、「その数は実に全国で二万七千にも膨れあがった」とある。コンビニエンスストアのセブンイレブンの数が、全国に約2万店舗(2022年4月現在)だそうだからそれよりも多い。あちこちに秋葉さまはあったわけだ。

 とんでもなくポピュラーな神社だということで、それなら私が小学校の遠足に行った秋葉神社はそのなかの1つに過ぎないとなりそう。ところが、さらに見ていくとこの秋葉神社について「遠州秋葉山本宮秋葉神社と栃尾の秋葉三尺坊大権現 別当常安寺の二大霊山を起源とする」などとする記述にでくわす。

 なんと、私が遠足で行ったあの《栃尾》の秋葉神社がドカンとでてくるじゃありませんか! さらには、《秋葉三尺坊大権現》というカッコいい名前の神様の名前もでてくる! ということで、がぜん興味がわいてきたのだった。そう、私が、小学校の遠足ででかけたあの栃尾の秋葉神社が、実は、秋葉信仰の起源の1つだというのである。

 そこで、小学校のときの遠足の写真をひっぱりだしてきて、秋葉神社のものはないか? と探してみる。そこで出てきたのが次の写真。上杉謙信の旗印である「毘」の字をあしらった旗がある。三尺坊ゆかりの常安寺は、謙信が創建・寄進したというお寺ですからね。

いちばん左にいてよそ見をしているのが私です(1人だけみんなと違う行動をとりがちだったからなぁ=あまり変わっていない)。

 ところが、これは調べていくとこちらも上杉謙信ゆかりの春日神社(上越市にある)を訪ねたときの写真であることがわかった。しかも、学生服の衿を見るとわかるように中学生のときの写真である(春日神社のほうが遠いですからね)。

 秋葉神社の遠足写真は残念ながら見つからないのだが、一連のこの話題についてのモヤモヤを真正面から解消してくれそうな『火防 秋葉信仰の歴史』(石田哲彌著、新潟日報事業社)という本があることが分かった。たくさんの史料に直接あたり、あるいは古い像の分解やファイバースコープで分かったことなども書かれている本である。

本文は393ページもある分厚い秋葉神社についての研究書。表紙には「遠州 秋葉山、秋葉三尺坊、長岡蔵王権現」とある。

 この本、残念ながら版元品切れで入手も困難になっている。以前、新潟日報に短期連載をさせていただいたツテなど使って借りようともしたがうまくいかず。ところが、地元は栃尾の《秋葉門前商工プラザ とちパル》というところに問い合わせしてみたら親切に送ってもらうことができた。

 それでは、秋葉三尺坊とはどんな人物だったのか?

 『火防 秋葉信仰の歴史』によると、平安時代末期(『信州名僧略伝集』によれば貞元元年=976年)に信州に生まれ、戸隠、飯縄山で飯縄信仰というものを修行した。幼名を周国(かねくに)。とても古いことなので年代など諸説あるのだが、実在の人物であることは、諸資料から間違いないそうだ。そして、北陸における修験道の中核道場だった栃尾の蔵王堂におもむきさらなる修行を行った。

 秋葉三尺坊でググってみると、いちばん最初に「静岡県秋葉山に住んでいた僧。 神通力を得て天狗となり、地上三尺(約90センチメートル)ほどの高さを飛行したという伝説からいう」なんて出てくるのだが。蔵王堂には、本宮を中心に12の僧坊が山内にあり、周国は、三尺坊に住んで勉学と修行をしたことから三尺坊と呼ばれるようになったというのが定説のようだ。

 ただし、「不動法の十八契印をはじめとする厳しい修行を行い全身全霊投入して成就。不動明王の神髄を極め、飯縄権現の極意を感得した」とあり、異形の姿となり白狐にのって自由に飛行したとある。飯縄権現(いずなごんげん)に似て、背中に両翼をそなえた鳥人のような姿で手には人を救う羂索と呼ばれるロープのようなものをもっている。ちなみに、上杉謙信の兜の前立(まえたて)には、まさに狐に乗った飯縄権現の姿がある。藤子作品やドラゴンボールZあたりに出てくるエアスクーターみたいな感じだ。なんてファンキーな!

秋葉信仰の本尊と飯縄権現。なんとなくウルトラQに出てきそうなビジュアルだが、それにしても、上杉謙信のこのセンス、友だちになれそう(『火防 秋葉信仰の歴史』より)。

 その後、三尺坊は、東海の修験道の中心地である秋葉山に舞い降りる。近年は、歴史的な研究もされているようなのだが、話が複雑になりすぎるので割愛させてもらう。各地方を旅して学んだのち永仁2年(1294年)に秋葉山に住んだといった記述もあるようだ。

 三尺坊は、この遠州秋葉山で火防の秋葉信仰の開祖となる。昔の日本人にとっては火難・盗難(家を奪われ・命も奪われる)は、生活の安全において大きな比重を占めるテーマだった。死後、秋葉三尺坊大権現(「権」というのは仮のという意味で、仏が「仮に」神の形を取って「現れた」ことを示す)と崇められる。

 ただし、秋葉神社が全国区になっていくきっかけとなった「秋葉祭」の大ブームは、貞享2年(1685年)だともある。この間のそれぞれのトピックの間にかなりのタイムラグがあることには注意したい。もっとも、それをも飛び越えるスーパーヒーローが、秋葉三尺坊なのだということなのではあるが。

 寛保2年(1742年)には、遠州秋葉山と栃尾のどちらが秋葉三尺坊をまつる本山なのかという裁きが行われたことが、暴れん坊将軍などで知られる大岡越前守忠相の日記に出てくるそうだ。深川の瑞運寺が栃尾の常安寺から秋葉権現を勧請したのに対して、遠州秋葉山が寺社奉行に訴えた。栃尾は三尺坊は修行したが火防の神となったのは遠州秋葉山なのでちょっとヘンな話なのだが。裁いた山名因旛守は遠州・栃尾の双方を本山と認める。

 以上、『火防 秋葉信仰の歴史』は、伝説と歴史の中間くらいにある秋葉三尺坊について、さまざまな史料を紐解いていった過程をそのまままとめたような本である。とくに江戸時代以前の情報は交錯しているので苦労したことがうかがえる。それを読んでこの分野にまるでシロウトの私がこれを書いているので、誤解もあるかもしれません。

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