慶應義塾大学発の医療機器ベンチャー・株式会社グレースイメージングが開発するのは、汗中の乳酸濃度を簡易に測定可能なウェアラブルデバイスだ。すでに臨床研究にて、心疾病のリハビリにおける運動負荷量の変化の可視化に成功している。
同社は高齢化によって死亡数が増加の一途をたどっている心不全の死亡率低下だけでなく、簡易に乳酸値測定による疲労測定が行える世界を目指している。デバイスを開発したグレースイメージング社の代表取締役 CEO 中島 大輔氏に汗乳酸センサーおよびそれを用いたウェアラブルデバイスの狙いについて話を伺った。
我が国では高齢化に伴い、心筋梗塞や心筋症などによって引き起こされる心不全による死亡数は増加の一途をたどっているが、死亡率を低減させるための十分なリハビリプログラムの実施には、患者・医療現場双方の負荷が高いのが現状だ。
特にプログラムに欠かせない心肺運動負荷検査は、装置自体のサイズが大きい・高圧ガス(酸素等)ボンベといった巨大かつ高価な消耗品が存在する・患者一人当たりに必要な検査時間および人的コストが高いという医療機関の経営上の問題に加え、マスクが苦痛である等の患者への負荷が存在する機器であり、十分な普及率とは言いがたい。
今後同検査が簡易化・精密化すれば、より患者に適したリハビリプログラムを策定することができ、結果として心不全による死亡率の低下が期待できる可能性がある。
「心不全パンデミック」を救う運動リハビリ
「心不全パンデミック」という言葉をご存じだろうか。心不全は心筋梗塞や心筋症、高血圧などを原因として生命を縮める病気だが、これは高齢になるほど発症しやすくなる。日本は世界でもトップクラスの高齢化社会であり、その結果心不全にかかる患者が急速に増えつつある。これを感染症患者の爆発的増加になぞらえて「心不全パンデミック」と呼称されている。
年々死亡数が増加してきている心不全に対する治療法には、薬物治療やカテーテル、ペースメーカーなどを用いた外科治療もあるが、運動療法で死亡率を大幅に下げられることがすでに知られている。しかし2019年の論文では、我が国で発生する年間約5万人の急性心不全新規患者のうち、入院中から外来にわたりフルに運動療法を行っている患者割合はたった7%であると報告されている。
リハビリが普及していない要因はさまざまに存在するが、原因の一つに医療機関にとっての初期導入コストの高さが挙げられる。6か月のプログラム期間中、数回実施する心肺運動負荷試験(CPX検査)の金銭的・人的負担が医療機関が導入をためらう要素の一つとなっている。
このCPX検査では、心電図、血圧計など各種周辺機器に加え、巨大な呼気ガス装置および消耗品である高圧ガスボンベを用意し、専用マスクを患者が装着した状態で徐々にペダルが重くなり運動負荷量が高くなるエルゴメーター(自転車型のリハビリ機器)をこぎ、有酸素運動から無酸素運動に切り替わる運動負荷量である「嫌気性代謝閾値(ATポイント)」を計測する。
ATポイントは筋肉のエネルギー消費に必要な酸素供給が追い付かなくなるしきい値であり、血液中の乳酸が急激に上昇し始める点でもある。そのため呼気ガスだけでなく採血によって血液中の乳酸を測定することでもATポイントを確認できるが、運動負荷検査中の採血回数が少ないと正確な値がわからない一方、それを頻繁に行うのは患者の負担も高い。結果、臨床において運動療法中の血液採取は実施されていない現状がある。
このペインを解消するため、グレースイメージングでは汗中の乳酸値を測定するセンサーを用いたウェアラブルデバイスを開発した。病院・患者双方の負担を軽減できるだけでなく、連続的な乳酸値の測定によって高精度なCPX検査が実現でき、より適切な運動リハビリプログラムを策定することができるようになる。
「以前は血中の乳酸と汗中の乳酸は相関しないとされていた。しかしこれは、これまでそもそも汗中の乳酸値を連続的かつ正確に取得できなかったため不明であったという言い方が正しい。今回(このデバイスを用いることで)初めて汗乳酸の連続測定が可能になって、血中の乳酸の上昇ポイントと汗中の乳酸の上昇ポイントが一致することが示された。すでに論文は学術雑誌(Scientific Reports)に報告済であり海外からも問い合わせをいただいている」(中島氏)
乳酸センサーとウェアラブルデバイス
汗中の乳酸値を計測するセンサーは、乳酸と乳酸反応酵素との化学反応の結果発生する電流によって乳酸濃度を測定する。乳酸反応酵素と電極を媒介物質でつなぎ、それを被膜で覆った多層構造を取っているのだが、センサーの保存性と即時反応性の両立が問題となっていた。
保存性とは乳酸に対する酵素の反応を長時間保持し続けられるということであり、1つのセンサーで何分間継続的に測定可能であるかを示す。即時反応性は汗中に含まれる乳酸に対するセンサー内酵素の反応速度であり、これら2つは即時反応性を高めるために被膜を薄くすると保存性が悪くなるというトレードオフの関係にある。
グレースイメージング社が採用している乳酸センサーは30分から1時間程度の保存性を持ち、かつ汗中の乳酸値の変化に0.1秒程度のタイムラグで即座に追従する高い即時反応性を持っている。この開発に際し、同社は既に複数の特許を取得している。
乳酸センサーを腕もしくは額(ひたい)にとりつけた後、エルゴメーターをこいで発汗し、リアルタイムでの乳酸値を測定する。従来の測定方法では非常に判別しにくかったATポイントが視覚的にも明確化されるため、リハビリを受ける患者に最適な運動負荷を処方可能となるという。
中島氏は慶應義塾大学病院に所属する現役の整形外科医であり、電子デバイスの開発経験はなかった。そこで乳酸センサーの開発は化学メーカー大手のJSR株式会社、ウェアラブルデバイスの開発はソニーグループの協力によって実現している。両者の協力のもと、今後はセンサーの量産化・アプリケーションの開発を行い、2022年の薬事申請および2023年の承認登録を想定して事業を推進しているところだ。
乳酸値はスポーツ能力向上のカギになる
このデバイス、まず心不全患者に向けたリハビリプログラムの策定を第1ターゲットとして開発が進められているが、利用はそれにとどまらない。プロスポーツへの応用などが次の目標として挙げられており、すでに慶應義塾大学医学部スポーツ生理学講座にで乳酸代謝の可視化実験などに利用されている。
また、大学競技レベル以上の水泳選手などは、血中の乳酸値の測定が行われている。現在はプールの端で休んでいる状態で採血を行い乳酸値を測るという手法で行われているが、泳いでいる最中の値を取ることはできない。グレースイメージング社のデバイスを使えば競技中の乳酸値も測定できるため、より効果的なトレーニングにつなげるための実験が進められている。プロアスリートの血中乳酸値の測定でも、採血が不要になる同社のデバイスは非常に魅力的に映るだろう。
乳酸値と心不全のためのリハビリとの関係はすでに長年の研究により明確となっているが、乳酸値と特定のスポーツとの関係はいまだ明らかになっていないという。以前は『乳酸は疲労物質であり、その除去が疲労からの回復には重要』といったことが言われていたが、近年の研究では必ずしも乳酸が疲労物質ではない可能性について指摘されている。
「乳酸値を測って、それが実際どうなのかというところの、科学的理由というのが実はあまりない。測りましょうという共通認識はあるが、測ってどうするのかというというところは実はまだ明確にわかってなかったりする。(我々のデバイスを活用して)使いこなせていなかった乳酸(値)を科学的に解釈し最終的に行動変容につながるような結果を示すことで、うまく現場で使えるようにしたい」(中島氏)
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