前回はこちらをご紹介しました。
※過去の連載記事はこちら:西新宿の今昔物語~新都心歴史さんぽ~
十二社、淀橋浄水場と玉川上水
西新宿の今昔物語では、第1回で十二社(じゅうにそう)の池や熊野瀧をご紹介しました。十二社の池は当初は農業用水として開削(かいさく)され、玉川上水から水を引きました。後に景勝地として昭和戦後期まで賑わいました。熊野瀧は、神田上水(現在の神田川)の水量を補うため、玉川上水から神田上水に向けて掘りぬかれた神田上水助水堀(かんだじょうすいじょすいぼり)が落ち込むところにできた滝でした。また、明治32年(1899)に開設された淀橋浄水場は、代田橋付近で玉川上水を新水路に分水して導水しました。
今回は、十二社や淀橋の開発や移り変わりに密接に関連する江戸の上水・玉川上水についてご紹介します。
江戸の発展と水事情
城下町江戸は、長禄元年(1457)の太田道灌(おおたどうかん)の築城を起源とし、天正18年(1590)豊臣秀吉から関八州を与えられた徳川家康が入府。寛永年間(1624~44)にかけて大規模な城下の普請を進めました。寛永12年(1635)に大名の参勤交代が開始された結果、江戸詰めの武士が増加し、江戸の人口は武家が50~80万人、町人が40~50万人。江戸時代中期には100万人を超え、当時のロンドンの人口50万人を大きく超える世界最大級の人口を抱えていました。
このような人口を抱えながら、江戸は良質な飲料水が得難く、濁り・潮気・鉄気があり「万民これを嘆く」状況で、僅かに井の頭・善福寺・妙正寺池などの湧水を水源とする河川を頼りにしている状況でした。そこで徳川家康は、家臣に命じて水利の調査を行ない、小石川上水を開削しました。これは、後に井の頭池を水源とする神田上水に発展しました。その後、さらに安定した上水を得るため開削されたのが玉川上水です。
玉川上水の開削
玉川上水は、江戸の町人庄右衛門・清右衛門の願い出により着工し、承応3年(1654)に完成しました。多摩川を水源とし、羽村に堰(せき)を設けて取水口とし、四谷大木戸(内藤新宿)に設けられた水番所までおよそ43kmは開渠(かいきょ)で、その先の江戸市中は地下に石樋・木樋を埋設し、江戸城中・山の手・芝・京橋あたりに給水しました。羽村から四谷大木戸までの本線は武蔵野台地の尾根筋を選んで引かれているほか、数多くの分水路も引かれ、流域の村々に生活・感慨用水とされました。武蔵野の新田開発にも大いに活用された上水道です。
玉川上水の画期的な点は、多摩川から取水し武蔵野台地を貫流させるという発想、日本の土木工事史上最大級の工事であること、新田開発による武蔵野の発展の起爆剤になったこと、桜並木など名所を創出して文学にも影響を及ぼしたこと、そして現代まで活用・保全されてきた貴重な土木遺産であることなどがあげられます。
開削工事の苦労
玉川兄弟に工事実施の命が下ったのは承応2年(1653)の正月で、着工は同年4月4日、四谷大木戸までの本線開通が11月15日とされ(異説もあります)、およそ43kmを僅か8ヵ月(この年は閏年で6月が2回ありました)で掘り上げたことになります。羽村から四谷までの標高差はおよそ100mで、100mにつき23cm下がる(0.23%=0.13178度)という、極めて僅かな勾配に水を流したことになります。このような高度な土木工事をこのような短期間で成し遂げたことは驚異的であり、現代の技術でも不可能に近いと評価されています。
工事は困難を極め、松平伊豆守信綱の家臣の安松金右衛門を設計技師に起用。安松の提案で羽村に堰を設けて取水する計画に変更し、約半年で羽村から四谷大木戸間を開通させ、翌承応3年(1654)6月には石樋・木樋による江戸市中への給水が開始されました。工費が嵩んだ結果、高井戸まで掘ったところで幕府から渡された資金は底をつき、兄弟は屋敷を売って費用に充てたと伝えられます。その後、庄右衛門・清右衛門には、褒賞金として380両が下された他、功績により玉川姓が与えられ、玉川上水役として上水の管理等にあたりました。
上水沿いの桜
玉川上水の両岸には松や桜(ヤマザクラ)の木が多く植えられました。上水の両岸は掘り上げた土を堤として盛り上げてあり、樹木が根を張ることで堤が堅固となり、また桜であれば花見客が堤を踏み固めることも期待されました。さらに当時は桜の花びらが水質を浄化すると信じられていたとも伝えられています。 なかでも「小金井の桜」は有名で、江戸時代から現代まで多くの花見客で賑わいました。大正13年(1924)には国の名勝に指定されています。
近代以降の玉川上水
明治19年(1886)夏、東京でコレラが流行しました。これを契機とし、明治25年(1892)淀橋浄水場の建設が着工されました。現在の代田橋付近で玉川上水を分水し、浄水場まで新水路を敷設しました。この水路は当初は開渠でしたが、昭和12年(1937)に地下埋設管となり、地上には道路を通しました。現在、環状7号線の杉並区泉南交差点から新宿区西新宿の十二社通りまで続く、都道431号線・角筈和泉町線がこれにあたり、通称「水道道路」と呼ばれています。
昭和40年(1965)淀橋浄水場は廃止されました。杉並区から新宿区に至る玉川上水は一部を残して暗渠(あんきょ)となり、羽村堰から取水した水は東村山浄水場へ送水されるようになります。こうして玉川上水は、小平監視所から下流がほとんど空堀となりましたが、昭和61年(1986)8月東京都の「清流復活事業」により、下水の高度処理水を使用して水流が復活しました。現在、西新宿から一番近いところとして、京王線の代田橋駅や笹塚駅付近で3ヵ所ほど玉川上水の開渠を見ることができます。
玉川上水は、開削350周年にあたる平成15年(2003)に、近世の貴重な土木遺産として羽村堰から杉並区浅間橋までの開渠が残る部分(三鷹駅付近を除く)が国の史跡に指定されました。残念ながら暗渠化された渋谷区・新宿区部分は指定から除外されています。
新宿区・渋谷区付近の玉川上水の今
玉川上水の下流にあたる杉並区から渋谷区、新宿区については、大部分が暗渠化されてしまいました。しかし、大半の区間は緑道や公園として整備され、流路の痕跡をたどることができます。渋谷区本町から新宿区西新宿に至る区間、文化学園大学に面した付近は、昭和11年(1936)以来、京王線の敷地として利用されていました。当初は玉川上水に並行して線路が敷かれていましたが、その後は暗渠化され京王線の用地となりました。現在は地下化され、地上は遊歩道になっています。新宿駅近辺は、暗渠化されていますが、流路は地下に保全されています。昭和61年(1986)の清流復活事業の際に東京都が行なった通水試験では四谷大木戸まで通水が可能だったそうです。新宿御苑付近では、上水は御苑北側の道路下に埋設されています。
新宿御苑の北側には、平成24年(2012)3月に新宿区により「玉川上水を偲ぶ流れ」(玉川上水・内藤新宿分水散歩道)が設けられました。この流れは新宿御苑トンネル共同溝内に湧出した水を使用しています。玉川上水の開渠としての終点、四谷大木戸にあった水番所の跡に建つ新宿区四谷区民センター及び東京都水道局新宿営業所の敷地内には「水道碑記」(すいどうのいしぶみのき)[東京都指定有形文化財]があり、玉川上水の開削事業について顕彰しています。
週刊アスキーの最新情報を購読しよう
本記事はアフィリエイトプログラムによる収益を得ている場合があります