恋愛ホルモンを生成する遺伝子を組み込んだカイコの糸で
恋に落ちる(かもしれない)服を作る!?
この「DIYバイオ」の現在については第1章「テクノロジーの前あし、アートの触覚」を担当するアーティスト・スプツニ子!氏のセクションでも語られる。科学と芸術のはざまを軽やかに行き交いつついまや時代の寵児となった彼女のデザイン論は、「既存の問題をどう解決するか」という旧来型のモデルではなく、「まだ答えの見えぬ問題を探し出し、社会に提示するためのデザイン」=「スペキュラティブ・デザイン」の理念を基盤としている。
恋愛ホルモンと呼ばれる「オキシトシン」を生成する遺伝子をカイコに組み込めば、そのカイコは恋愛ホルモンが混入した糸が紡ぎ出すのではないかという発想にもとづいた「恋に落ちる(かもしれない)シルク」というアイデアは、スプツニ子!氏の天衣無縫ぶりと荒唐無稽ぶりを如実に表現していて面白い。
さらに彼女は赤く光る糸を生成するタンパク質の遺伝子を導入し、「運命の赤い糸をつむぐカイコ」を作る実験に着手しているそうだ。そこには「何が良くて何が悪いのかを判断する〝判事〟の役を担うより、善悪の移り変わりや価値観の曖昧さを、アートを通して探っていきたい」という決意と使命の裏打ちがある。
ケヴィン・スラヴィン氏による第2章「アルゴリズムが書き換える世界は人類を進化させるのか」では、金融業界から広告業界まで、いまやあらゆる市場を支配する私たちの思考パターン/行動パターンを解析したプログラム=アルゴリズムの戦争が語られ、ドミニク・チェン氏による第3章「人間の欲望のリデザイン」ではその結果もたらされる私たちの判断が自律的なものなのか他律的なものなのか、もはや判別不可能な時代になっていることが指摘されている。
ここにも「自ら考え自ら行う人間」という概念の再考の必要が示唆されているわけで、バイオテクノロジーに限らず、本書のタイトルである「ネットで進化する人類」というコンセプトはすべての章に基調音として鳴り響いている。
藤井直敬氏担当の第4章「相互憑依が拓く人類(ヒト)の認知進化」では、人間の脳の認知機能、人間の体の知覚機能の研究の先端事例がVR技術の進化を絡めつつ紹介されてるが、ここでもやはり人間における「現実」というものの見つめ直しが、現在の私たちが直面する喫緊の課題として提出されている。
第5章は田中浩也氏による「オープンソースハードウェアが自己増殖する未来生態系」。「オープンソース」というとリーナス・トーバルズの「Linux」など、ついついソフトウェアを連想してしまうが、実はこのところさまざまな方面で話題となっている3Dプリンターも、「Fab@Home」と「RePRap」という2つのオープンソースハードウェア遺伝子から進化の系統樹を伸張/分化させてきたものなのだ。3Dプリンターを「自らを構成するパーツを自らが生成する」機械と捉える田中氏の視点も、そちら方面にはにあまり知識のない私などには新鮮で興味深かった。
ビフォアの世界ではタブーだった科学技術の世界に
真正面から向き合い、コミットしていくということ
本巻を手にした読者はおそらく、時折、「ネットで進化する人類 ビフォア/アフターインターネット」というタイトルと、そこに描かれている現状および未来がインターネットとどのように関連するのか、ふと見失ってしまうことがあるかもしれない。
しかし、これこそまさに「アフターインターネット」の世界であり、すべての技術の背景、発想の原点には二十数余年にわたるインターネットの歴史の堆積化と土壌の肥沃化がある。もはや「インターネットでこんなことができるようになった」といった時代はとうに過ぎ去り、むしろインターネットは私たちの日常生活の後景に退きつつ、「人間」や「生命」の定義を変容させながら人類の進化を否応なく推し進めている。
同時にスプツニ子!氏の章の紹介部分で触れた「まだ答えの見えぬ問題を探し出し、社会に提示するためのデザイン」=「スペキュラティブ・デザイン」の類は、人によっては決して耳障りのよいものではないかもしれず、技術に支配される人間というディストピア的なイメージを抱く方がおられるかもしれない。しかし、そんな、ちょっと尻込みしてしまう人には本巻の監修者である伊藤穰一氏が序章で述べているこの言葉を噛み締めていただければと思う。
「もしかするとこの中には、これまでビフォアの時代にはタブーとされていたような内容も含まれている可能性があると思う。そこも迷わず読み込んで欲しい。(中略)今後の科学技術の世界で、従来の倫理観や伝統的価値観からはみ出すテクノロジーが次々と生まれ出ていくのは、ほぼ確定的な現実がある。(中略)複雑性を高める科学技術の世界に、『真新しい何か』を見出し、そこに真正面から向き合ってコミットしていくことに、われわれの未来のあるべき姿がある」
冒頭で述べたように、私たちはいま、「インターネット以前の人類」から「インターネット以降の人類」への過渡期に立ち会っている。そして、その「立ち会っている」というスリリングな幸運を伊藤氏の言うように「真正面から向き合ってコミットしていくこと」に転換していかなければならない。紛れもない事実と現実を直視すること、人間と世界の変容から目を逸らさないこと……。未来を切り拓いていくことに参加したいと願うすべての人に読んでいただきたい書物である。
著者紹介――高橋 幸治(たかはし こうじ)
編集者。日本大学芸術学部文芸学科卒業後、1992年、電通入社。CMプランナー/コピーライターとして活動したのち、1995年、アスキー入社。2001年から2007年まで「MacPower」編集長。2008年、独立。以降、「編集=情報デザイン」をコンセプトに編集長/クリエイティブディレクター/メディアプロデューサーとして企業のメディア戦略などを数多く手がける。現在、「エディターシップの可能性」をテーマにしたリアルメディアの立ち上げを画策中。本業のかたわら日本大学芸術学部文芸学科、横浜美術大学美術学部にて非常勤講師もつとめる。
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