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小野ほりでいの暮らせない手帖|【最終回】夢について

2015年06月14日 18時00分更新

文● 小野ほりでい(イラストも筆者) 編集●ヨシダ記者

小野ほりでい
『オモコロ』や『トゥギャッチ』などのサイトでイラスト入りのコラムを連載中。特に『トゥギャッチ』の連載に登場するエリコちゃんとミカ先輩はネットの人気者。

暮らせない手帖最終回02

 人間、本当に望むものがまさに手に掴める距離で目の前に現われると、えてして泡を食って逃げ出したりしてしまうものである。およそこういう性質があるから人が幸せになるのは難しいのだろう、と思う。

 私が見る範囲で、夢を叶えるとか叶えないという問題について言えることはそれについて肯定的な人も否定的な人もなんだかそれをあまりにも大問題のように言っているが、そうでもないのではないかということだけだ。私たちは娯楽にしろ教育にしろ、子供の頃から洗脳のように夢を持たなければならない、夢を叶えるために努力しなければならない、そして努力をすれば夢は叶うというふうに繰り返し言われている。もう飽き飽きするくらいに言われるものだから、当然、夢なんてなくても生きていける。そんなもの叶えようと努力するのは愚かしい。叶わないものを叶うなどと断言するのは無責任だ。などと冷笑的な態度を取る人たちも現われはじめる。

 私は「楽になりたい」くらいしか具体的な希望がないので、夢があるほうとは言えないのだが、それでも夢を叶えようとする人たちに対する冷笑的な態度には同意しかねる。夢が叶う、というのはただの結果である。一般に、人間は何らかの結果を呼ぶために行動する。だから、結果的に叶わないとわかっていて努力するのは無駄であろう。そんなのに費やす時間があったら小銭でも稼いで美味いものでも食えば有益だ、と言うのならばそうだろう。

 だが、隣の芝が青いだけかもしれないが、叶うとか叶わない以前にどう考えたって夢がある人達のほうが幸せそうだ。たとえば、夢が叶うと思って100歳まで努力して、寿命で死ぬ直前に夢が叶った場合と、叶わなかった場合。これにどれだけ差があるだろうか。

 当たり前だが夢のために努力するのはそれを叶えるためだろう。しかし、叶わないとあらかじめわかっていれば、そのために四苦八苦することもないはずだ。四苦八苦の過程で夢が変わることもあれば、四苦八苦そのものが何かを生み出したり、あるいは力量をつけるきっかけになったりもするだろう。夢破れてもそういったことは無駄にならない。

 私がこういうふうに考えるのは、むしろ夢というものをそんなによく思っていないからでもある。私は「楽になりたい」のだが、夢というのは死に物狂いの努力を要求することが多いからである。それこそそれが幸せをもたらすくらいに、何かを必要以上に良いものと考えると、かえってそれが手に入りにくくなるというのは人にしばしば起こることだろう。

 


※本記事は週刊アスキー6/9号(5月26日発売)の記事を転載したものです。

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