小野ほりでい
『オモコロ』や『トゥギャッチ』などのサイトでイラスト入りのコラムを連載中。特に『トゥギャッチ』の連載に登場するエリコちゃんとミカ先輩はネットの人気者。
唐突だが『暮らせない手帖』と題したこの連載も次回で最終回になる。私がこの題名に込めた意味は上手くそつなく暮らすことができないという意味であって、月々の収入が少なくて生活ができないという意味ではなかったのだが、結果的にそういう状況に陥ってしまうことは遺憾である。
今の時代、自分の不器用さや不幸について自虐的に言及するという手法はあまり珍しいものではない。不満や鬱屈のある人は、せっかくなのだからという感じでさかんに自虐しているものだ。実際に不幸であるうちはこれは問題ないのだが、困ったことにだいたいの人間は幸せを望み、いずれ鬱屈の原因も解消してしまうので、ここから矛盾が生まれてしまう。
持たざる者から持てる者になったとき、それまでとは全く違う品位が求められるのだが、自虐によって同情や共感を求めるというぬるま湯の習慣から抜けるのはとても難しく、たいていの人は恵まれた環境を得ても自虐を止めることができないのだ。
あまり好きでない言葉で説明しなければならないのは癪だが、持てる者の品位というものについて考えてみよう。どこまでも非力な人間は他人を傷つける心配なく自分の不遇ばかり嘆いていればよいだろう。しかし、もし自分が人を傷つける力を持っていて、なおかつそのことを認めずに振る舞うのなら、その態度は傍若無人と糾弾されるに違いない。自分が非力でないことを認めない限りは他人を気遣う責任が生じないし、他人を気遣う責任を回避するためには誰だって自分は非力だと考えている方が都合がよいのだ。言い換えれば、自分は恵まれていて、それゆえに他人を傷つける可能性があると認めないかぎり他人に対して優しくなることはできないのである。
創作の世界でもこれと同じ問題がよく起きている。私は鬱屈した人間が好きなので、よくそういう人の本を読むのだが、鬱屈を売り物にして本当に売れてしまった作者の立場の難しさといったらない。それまで自分は不幸だ、不器用だといっていれば不器用な人たちの共感が得られたのに、本が売れて、結婚してと、幸福の階段を一歩登るたびにそういった過去の言葉が空々しくなってしまうのだ。
恵まれた環境にありながらそれでもわずかな不満点を探しておいしい立場であり続けようとする態度のみっともなさといったらなく、どんなに好きな作者でもその様子を見せつけられると途端に白けてしまう。物を書く人には過去に遡ってまで否定されてしまう瞬間があるのだ。では、この連載は何なのだ、という話になるのだが、もう誌面が尽きてしまう。まことに残念である。
※本記事は週刊アスキー6/2号(5月19日発売)の記事を転載したものです。
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