小野ほりでい
『オモコロ』や『トゥギャッチ』などのサイトでイラスト入りのコラムを連載中。特に『トゥギャッチ』の連載に登場するエリコちゃんとミカ先輩はネットの人気者。
子供の頃、母が車に乗り込む前に毎回ばんとドアを叩くのが不思議になって理由を聞いたことがある。彼女は静電気体質で、ドアを開けるときにバチッと来るのが怖いから強く叩いてその衝撃で誤魔化しているのだと言った。来るのか来ないのか分からない少しの痛みを和らげるためにそれ以上の痛みを駆使するというのは異常なことだ。でも、私にとってこういう行動原理は「大人っぽいこと」の象徴になっている。
ストレスの多い人が拠り所にするものでも、案外自分を痛めつけるような性質のものが好まれていることが多い。それは物理的ないし身体的に人間を傷つけるものもあるし、精神的な面でその役割を果たすものもある。酒や煙草なんていうものは子供には禁止されているが、そもそも必要ないものだろう。ビールは味蕾が死んでいない子供には苦すぎるし炭酸が舌に刺さる。煙草は胸でひりひりしてむせるだけだ。
だけれど、大人になるともっと漠然としたストレスと戦わなければならなくなる。一発殴られて済むならそれで済ませたいということが山積みだろう。慢性的にそういった状況で過ごしているうちに、私たちは自然と、漠然とした不安やストレスに自分で発生させた痛みで対抗するということをおぼえる。解決が難しかったり、長期的なストレスを短期的なストレスで洗い流してしまおうというのだ。
考えてみれば、嫌なことがあって、それが去るというのは快楽のもっとも原始的な形かもしれない。私はこの世に楽しいことなんて何もないとよく思ってしまうたちだが、そういうときに限って体調を崩してしまう。それから食べるものや生活に気をつけてやっと快復すると、体調を崩す前よりずっとましな気分になっているものだ。しかし、快楽の前段階にあたるストレスの部分があまりに長いと楽しむどころではない。炭酸水のように、舌やのどではじけてすぐに消えてしまう不快が望ましい。
アルコールに逃げてしまう人のなかにも、責任感が強かったり、家族想いな人もいるだろう。人の役に立ちたいとか、幸せにしてあげたいという気持ちが強すぎると現実とのギャップに耐えられなくなってしまう。どうしても酒がやめられない彼らに話を聞くと、うまくいき始めても、自分が幸せになってはいけないような気がして飲んでしまうと答えるのだそうだ。
子供は想像力が豊かだとよく言うが、大人のほうがよっぽど自分の頭の中に棲んでいると思う。ほとんど頭のなかで苦しんでいるくらいだ。だから現実の痛みが必要なのだろう。
※本記事は週刊アスキー4/28号(4月14日発売)の記事を転載したものです。
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