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小野ほりでいの暮らせない手帖|若いとか美しいということについて

2015年04月03日 08時00分更新

文● 小野ほりでい(イラストも筆者) 編集●ヨシダ記者

小野ほりでい
『オモコロ』や『トゥギャッチ』などのサイトでイラスト入りのコラムを連載中。特に『トゥギャッチ』の連載に登場するエリコちゃんとミカ先輩はネットの人気者。

小野ほりでいの暮らせない手帖

 何もしたくない。私にとってしたくないことの究極は労働だが、もっと言うと映画を見たり本を読んだりその他充実した人生を送るための文化的な行動ですら、私にとってはしたいからするというよりはしたほうがよさそうだからするストイックな部類のものである。

 最近では自分の生命活動に必要な体温を作り出すのも面倒になって、ずっと風呂に浸かっている。とても心地が良い。でも、やがて冷めてしまう。悲しい。ときどき、こんな無内容な人間が許されていいのかと思う。

 若いとか美しいということについて考えてみよう。ここに若くて美しい娘がいる。彼女はそれだけで、あらゆることを許されるだろう。無教養、無内容、無礼、性格が悪い、その他なんでも。彼女がたとえ無内容だとして、男たちは彼女に取り入るため、あらゆる手を使って楽しませてくれるだろう。所作が洗練されていなくても、礼儀がなっていなくても、多くの人が彼女より美しくないもの、若くないものより彼女のほうが価値があると考えるだろう。

 だが、老いてみてはどうだろう? ひとたび若さを失ってみれば、彼女がおろそかにしてきた欠点が堰を切って表れ出る。無教養、無内容、無礼、未熟な人間性、全てが若さゆえに許されてきたのだと気付く。おまけに男たちが彼女に提供してきたサービスも打ち切られ、生活も退屈だ。若さや美しさ、彼女でない者が羨み、彼女が誇ったそれらは、彼女の中身ではなく、よく完成された「蓋」のようなものだったとようやくここで知らされるのである。

 男だって同じだ。マナー、教養、その他大人から口出しされるどんな欠点だって、若いうちは放置していてもなんとかさまになるものだ。しかし、老いて横一列になったとき、そのおろそかにしてきたものが剥き出しになり、ただただみっともなく、取り返しのつかない人間を形成しているだろう。なるほど、だから私たちはしつこく躾けられて育てられてきたのだ。

 では私は、というともうそう若くもなく、美しくもなく、ましてや女でもない。「何もしたくない」といって、それが詩的な憂いを帯びるような青少年でもとうにないのだ。十年、二十年先になって、何も成し遂げず、無内容なまま老いた自分が、「体温を捻出するのが面倒だ」などといって相変わらず風呂に浸かっているところなど、想像するのもおぞましい。だから、人としてちゃんとすべきところをちゃんとしようと、中年にも差し掛かった今頃になって必死に巻き返しを図っているのである。笑いたくば笑え、これは戦いなのだ。

 

 


※本記事は週刊アスキー3/31号(3月17日発売)の記事を転載したものです。

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