「ルールを変えよう」キャンペーンによせて、角川EPUB選書『ルールを変える思考法』の著者・川上量生氏に、前・後編に分けて「ルール変えることがなぜ重要なのか」を聞いた。後編のテーマは「『みんなの意見』はホントに正しいのか?」
前編は、「そもそもルールってなんだ?」というテーマでした、今回のテーマは、「それでは、自分なりのルールをどう考え、決断していけばいいのか」です。
■正しいことは、なんとなく「空気」で決まってしまう
ネットでもリアルでもそうですが、日本の社会では「みんなこう振る舞うべきだ」「日本人にとってこれが正しいんだ」といった同調圧力が強いように思います。そして、正しいことがなんとなく「空気」で決まってしまいます。
ネット上での「炎上」にもそういった特性が見られます。炎上をけしかける人たちは、「正しさ」を振りかざして当事者を叩くだけじゃなく、まわりで見ている人にも「こんなふざけた発言をしているこいつは許せん。みんなも協力しろ!」といった踏み絵をさせようとする。少なくとも「この考えに反対するやつは社会の敵だ」ぐらいには思っているんじゃないでしょうか。
多くの人間がネットを通じてつながっていく中で、みなさんも「集合知」という言葉を聞くことがよくあると思います。「集合知」というと、何かすごいもの、インテリジェンスを感じさせるもののようなイメージがあるかもしれませんが、基本的には頭の悪いものだと僕は考えています。
以前に『「みんなの意見」は案外正しい』という本もありましたが、あれは集合知が正しいという話ではなくって、結局、統計の話なんです。要は、人間が思っていることをアンケート調査して平均値を出したら、それがだいたい現実と近いというだけのこと。
データの集まりには、たとえば平均値のように、そのデータの特性を表すような数値がいろいろとあります。だから、人間が膨大なデータをコンピュータ処理させることによって何らかの結果を得るということは確かにできるでしょう。
でも、それは、コンピュータ自体が何かを考えたり、そこに何か神秘的なプロセス、つまり知性のようなものがあるということではない。それは単なる「統計処理」であって、「知性」とはいえないものなのです。
■なぜ集合知はブレークスルーを起こし得ないのか
ここでいったん整理しておきましょう。
一般になんとなく「集合知」と思われているものの中には、多分に誤解も混じっていると思います。たとえば、ネットを介して多人数がコラボレーションを行うことで、一つの面白い作品がつくられることがよくありますが、これは「集合知」というより「分業」です。コラボレーションとは、要は一人が、全体の中のあるパートを担当するということです。
Wikipediaがわかりやすい例でしょう。一人で百科事典の項目をすべて書くのは無理でも、みんなで寄り集まって書いていくことで、一つの百科事典ができている。仕事量としては確かに途方もないものですが、ただ大勢で分業して仕事をやっただけともいえます。
こうした分業を除くと、一般の人がイメージする「集合知」には大きく2パターンがあると思います。
一つは、何かの力学的なエンジンとしての「計算機」。つまり、そこを通すことで、何かの演算をしてくれる装置みたいなものです。
もう一つは、「人格を備えた一個の生命体」のようなもの。集合知という言葉自体に、何かSF的なイメージを多くの人が漠然と持っていると思われます。
いまのところ、「演算装置としての集合知」というものは実現できていません。そして僕は、こうした演算装置は賢くないというのが結論だと思っています。
たとえば、アインシュタインだとかアリストテレスだとか、「賢人」と呼ばれる人たちは昔からいるわけですが、では、複数の人間を集めた何かの仕組みで、もっと賢いことができるのかというと、そうでもない。
将棋の世界でも、羽生善治さんという天才がいて、「羽生世代」と呼ばれる人たちや、それに続く若い世代もいる。でも、将棋というジャンルを深めるための「集合知」を使った演算装置って、基本的には誕生していないんです。ブレークスルーというものは結局、「天才」が起こすのです。
もちろん、これまで出版された本を通じて、そこに「人類の知」みたいなものがあると考えることはできるでしょう。でも、結局そこでは、人類の知が系(一つのまとまり、つながり)として何かを考えているのではなく、過去のライブラリーを参照した人たちが、それぞれ自分で考えている。過去の勉強をし、過去の人類の知と対話しながら情報処理をしているのって、やっぱり人間なんですね。
■「変えられないこと」こそが集合知の恐ろしさ
集合知のもう一つのイメージとして「人格を備えた一つの生命体」というお話もしましたが、ここまで述べてきたように、集合知に知性はありません。知性は個々の人間にはあるんですが、全体の系にはないんです。
集合知の最大の特徴は、「賢い」ということではなく、「変えられない」ということにあります。これが集合知の恐ろしいところです。
たとえば、人間の身体は約60兆個の細胞でできているといわれますが、そのうちいくつかの細胞に、仮にどんなにインテリジェンスがあったとしても、人間の決断にはまったく影響しません。集合知の恐ろしさは、これと似ています。
多くの人は、バタフライ効果(非常に些細な事象や差が、全体の結果に甚大な影響を及ぼすという現象を指す)のような話から、「1個1個の小さなパーツで起こったことが、全体に波及して結果を変えていく」というような印象を持っていると思います。ただ、あれはかなり特殊なケースであって、ミクロで起こっていることは、マクロではなんの影響も与えないというのが普通です。
日本でも、年金制度や国債の破綻、少子化の問題について「これはヤバいぞ」と多くの人が口々に言っているわけです。でも変えられない。それは政治上の「決断」の問題だと、みんななんとなく思っているんですが、そうではありません。「ミクロな系は、マクロな系に影響を与えられない」、つまり「変えられない」というのが、集合知の最大の特徴なのです。「賢い」んじゃなくて「変えられない」のが集合知なのです。
■人間にとって本当の合理性とは「生き残るかどうか」
では、そうした社会の在り方、ルールも踏まえて、最終的に個人が一つひとつの決断をどう下していけばいいのでしょうか?
僕は、人間というのは、本質的に合理的な生き物ではないと思っています。
資本主義というのも不完全な仕組みです。もし資本主義を合理的に突き詰めれば、社会は破綻してしまうでしょう。ただ、そうなるまでのタームが長いから、多くの人は安定したシステムのように錯覚してしまう。
文明というものが、これまでどんな形で崩壊してきたかを見ていると、その中心原因は資源の浪費なんです。昔なら森林資源、最近だと石油資源がそうでしょう。
いまのところ、石油はあまりなくならずに済んでいますが、人間の数がこれだけ増えていくと、どのみち足りなくなって生きていけない。少なくとも1000年単位では絶対に維持できない仕組みです。でも資本主義は突き詰めると、「使い尽くすまで経済規模を拡大させる」ということが正解になるわけです。
その枠の中で合理的に行動するというのは、ただ崩壊を早めるだけではないでしょうか。もともと不完全な仕組みのもとで、不完全な人間が、合理的なことを追求しようというのが、すでに合理的ではないと思うのです。
人間にとっての本当の合理性というのは、「利己的な遺伝子」ではないですが、単純に「生き残るかどうか」です。
資本主義の合理性を追求することが生き残ることにつながるかといえば、それはおそらく違う。先ほどもお話ししたように、地球の環境を守れるロジックを、資本主義は持っていないんじゃないでしょうか。
確かに、環境経済学のように、「環境汚染を引き起こす会社に税金をかける」といった考え方もあります。でも、要は「そうした設計をどこまで実現できるのか」というところこそが問題なのです。
たとえば実験室の中で、「こういう社会システムにすればうまくいく」ということをある程度シミュレーションできるとします。そして、その社会システムを実現させるための社会システムとして、たとえば選挙やマスコミの存在などがあるわけです。
そうした中で、「これならきちんと社会を維持できる」という仕組みの提案が存在して、その提案を社会が自分で選び、実現することができるのかというと、そのような自由度を社会が持っているとは限らないし、むしろ持っていない可能性のほうが高いのではないでしょうか。
さまざまなルールがある中で、個人がどう決断するか。
結論的なことをいえば、みんなが自分なりに、バカな決断をしていけばいいんだと思います。繰り返しになりますが、人間は不完全な生き物です。どうせ真剣にやっても、バカな決断をするんですから。
そして、そんなバカな決断をすることがもっと許されるようになれば、社会はさらに面白くなっていくと思っています。
(おわり)
写真:西村康(SOLTEC)
川上量生
株式会社ドワンゴ代表取締役会長、株式会社角川アスキー総合研究所主席研究員。
1968年生まれ。京都大学工学部卒業。97年にドワンゴを設立、同社を東証1部上場企業に育てる。06年には子会社のニワンゴで「ニコニコ動画」を開始。その後も「ニコニコ超会議」「ブロマガ」など、数々のイベントやサービスを生み出している。
■関連サイト
角川EPUB選書 創刊記念 ルールを変えよう!キャンペーン 特設サイト
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