週刊アスキー本誌では、角川アスキー総合研究所・遠藤諭による『神は雲の中にあられる』が好評連載中です。この連載の中で、とくに週アスPLUSの読者の皆様にご覧いただきたい記事を不定期に転載いたします。
'64東京オリンピックとコンピューターの夢のあと
テクノロジーが活躍するのもオリンピックの伝統。ロンドンではソーシャルが話題となったが日本は2020年に何をパフォーマンスできるか?
日本青年館の3階ロビーには、有名な亀倉雄策による東京オリンピックのポスターが飾られている。過去、オリンピックでは、とくに放送関連の新技術が試みられるが、東京オリンピックでは日本技術が急速に世界に認められた時計もトピックとなった。セイコーが公式時計を担当、その記録用に作られたプリンター(EP)の息子の意味でEPSONというブランドが付けられたそうだ。
ネット(コンピューターネットワーク)の始まりは、'50~'60年代にかけて登場した防空管制システム(SAGEやBADGE)がきっかけだとされる。インターネットの先祖と言われるARPANETが、核攻撃に耐えるよう作られたという伝説は誤解だそうだが、国防総省の研究機関によるプロジェクトではあった。
そんななかで、日本初のネットワークは、'64年の東京オリンピックで、日本IBMが開発・提供した純民生のシステムである。プロジェクトを率いた安藤馨さんによると、当時、米国のIBM本社は、日本IBMがこれを確実に実現できると信用せず猛烈な反対にあったそうだ。しかし、同社は、IBM1410という可変長十進コンピューターを日本青年館に設置。電電公社もオリンピック開催期間中に限り音声以外のデータ通信での利用を日本で初めて許可する。
IBM本社にとってさえオンラインの経験が少ない時期だったそうだ。オリンピックで、本格的なオンラインシステムが組まれるのも初めてである(ごく簡単なものはIBM本社が冬季オリンピックで提供したことはあった)。費用はIBM本社との折半だったが、日本IBMは、これを同時に三井銀行に売り込む。それが、翌'65年、日本初の銀行オンラインとなった。高度経済成長下の日本の銀行は、なんでもありの勢いがあったのだ。当時の関係者によれば、IBMが新機種を出すと知ったら、都市銀はスペックも見ないで発注していたという。
日本最初のオンラインが稼動した場所はどんなところか? 先日、青山方面に出かけたついでに日本青年館を訪ねてみた。実は、東京オリンピック開催時の日本青年館は、'25年(大正14年)竣工の建物で、現在のは'79年に建て替えられた2代目である。私は、旧日本青年館を訪れたこともあり記念プレートが飾られていたと記憶するのだが、いまは'64年の東京オリンピックのポスターだけが貼られていた。ここに、代々木のオリンピックプールや駒沢競技場など、都内36ヵ所、23種目の競技データが、日本で初めてのデータ通信として届けられる。そして、同じ日本青年館内に設置されたプレスセンターを通じて、世界中の人々に伝えられる。
これから押し寄せる時代の変化を自分たちだけが先取りして肌で感じる。それは、オリンピック競技そのものにも劣らずエキサイティングな時間だったろう。窓の外を見ると、隣接する国立競技場。しばしば、こういうところで感じる、ワーッという50年前の歓声を聴くような錯覚。私は、同じようにコンピューターの時代の1ページを飾るビット列を感じた気がした。
※SAGEはSemi-Automatic Ground Environmentの略、BADGE:Base Air Defense Ground Environmentの略。
※安藤馨:戦前にIBMの前身日本ワトソンに入社。戦後、日本IBMの常務取締役となる。富士通への転職は新聞記事となった。父は英文学者の安藤勝一郎、母は幸田露伴の妹でバイオリニストの幸田幸。
【筆者近況】
遠藤諭(えんどう さとし)
株式会社角川アスキー総合研究所 取締役主席研究員。元『月刊アスキー』編集長。元“東京おとなクラブ”主宰。コミケから出版社取締役まで経験。現在は、ネット時代のライフスタイルに関しての分析・コンサルティングを企業に提供し、高い評価を得ているほか、デジタルやメディアに関するトレンド解説や執筆・講演などで活動。関連する委員会やイベント等での委員・審査員なども務める。著書に『ソーシャルネイティブの時代』(アスキー新書)など多数。『週刊アスキー』巻末で“神は雲の中にあられる”を連載中。
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