週刊アスキー

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週アス回顧録:創刊前々夜── 振り返れば、それは「博打」だった

2012年12月10日 18時00分更新

(週刊アスキー12月11日号掲載コラム『Scene 2012』を再構成しています)

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 一般誌の『週刊アスキー』の休刊と、『EYE・COM』の週刊化および新しい『週刊アスキー』への誌名変更は、当時の社長のツルの一声で決まった。が、本当に大変なのは、そこからだった。なにしろ、ひとつの週刊誌がコケたばかりである。次、これでまた失敗したらどうなるんだ、みたいなネガティブな空気感が、会社中に蔓延していたように思う。

“フィジビリティスタディ”なる言葉を聞いたのも、そのころだった。なんスか? それ、みたいな(笑)。

 「実行可能性調査」と訳されるらしいが、週刊化自体、可能性よりも、不可能性と危険性に満ちていた。当時の役員はほぼ全員が、週刊化に反対。刊行するコストはかなりの額に上るのに、成功の確率は極めて低い、というのが週刊誌である。自分が役員だったら、やっぱり反対していたと思う。しかも、そのころのアスキーは、銀行主導で絶賛経営再建中だった。

経営再建中の大博打

 つまりこれは「博打」だったのだ。自分が打つバクチ。それに会社というか社長が乗った。経営者としてはどうかと思うのだが、勝負師としては大したものだ。この人物に巡り会ったことは、自らの人生の中で最大の幸運だと言っていい。もっとも創刊してからの1年間、イヤというほど地獄を見ることになるわけだが……。

「部数を増やすためのシナリオを用意しなさい」
「広告はどうやってとっていくんだ?」
「2年目以降の展開は?」

 そんなもん、あるわきゃないでしょ、だってバクチなんだもん、というような暴言はもちろん封印した。偽らざる本音であったとしても。

「はい、この企画が呼び水となって、夏の新製品時期に……」
「はい、まずはメーカー様との信頼関係を構築してですね……」
「はい、想定部数をこれくらいと仮定して、若年層読者の……」

まさに、立て板に水。正直に言おう。すべて、その場で適当にこしらえたデマカセである。

ウイナーのイメージを持って週刊アスキー』にベット!

  目の前に積んだなけなしのチップと、手の内のカード。次にどんな札が来るかなんてわかるわけがない。が、ウィナーとなったイメージだけは明確にもっていた。「週アスが20万部売れるようになる。そのときのことをイメージしようよ」。売れてメジャー誌になったイメージで仕事をすること。スタッフにはずっとそう言っていた。

 100ドルの持ち金を1万ドルにするには、10ドルずつちまちまと賭けていたのでは一生1万ドルのウィナーにはなれない。勝利までの9900ドル。100ドルの99倍と考えると恐ろしく遠いけど、1000ドルならたったの9.9倍だ。考え方次第でゴールは近くにも、はるか遠くにもなる。

 少し話がそれてしまったが、結局、どんなに説明をしても、当時の経営陣を説得することはできなかった。そもそもこちらの説明が、次には必ず赤の目が来ます、と言っているようなものだったのだ。だから、それは当然と言えば当然。経営の言語と賭場の言語。理解しろというほうが無理だった。

 結局、最後の最後に反対意見を黙らせることができたのは、「1年やってみてダメだったらクビにすればいいでしょ」の台詞、机バーン付きだった。

 ……あれから15年。

 博打で一番大切なことは、間違いなく引き際である。これを間違えると、それまで築き上げたチップの山が瞬く間に消えていく。自分はどうやら引き際を間違えたようだ。でも、後悔はしていない。また、10ドルのテーブルからやり直せばいいだけのことだ。

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