(週刊アスキー9/11号掲載コラム『Scene 2012』を再構成しています)
憂鬱な1996年が暮れかけたころ、当時編集長を務めていた雑誌『EYE・COM』の週刊化を本気で考え始めていた。いろんな週刊誌を買って読みあさったり、某編集部は何名くらいの編集者がいるのかこっそり調べたり。それから、今はエンターブレインの社長で、当時は『週刊ファミ通』の編集長だった浜村弘一氏に「週刊誌ってどんな感じなん?」と聞きに行ったりもした。
「週刊誌になるとね、まわりが変わるから」
彼のこのアドバイスが実は決め手になった。
「周囲はいろいろ言うと思うけど」
今でもあのときの言葉に感謝している。
EYE・COM週刊化をぶち上げる
年が明けて'97年、なんとなくアスキーの幹部社員になっていた。目上の人間が抜けたせいで、決して実力が認められたわけではない。EYE・COMの編集長になったときもそうだったが、いつもいつもトコロテン式に昇進するようだ、自分は。まあ、だからあっけなくツルリと降格もしちゃうわけだけど。 年明け早々、松田聖子と神田正輝が離婚した。まったくもってどうでもいいような話だが、振り返ってみればバブルの崩壊の最終局面にふさわしい1年の幕開けだったように思う。
「EYE・COMを週刊化したいと思います」
取締役を前にした年頭の会議で、僕はそうぶち上げた。途端にまわりの空気が凍り付く……ほどではなかったが、2、3度気温が下がった気がした。本来なら、勝算はあるのかとかいろいろ突っ込まれるところだが、前年、元上司がドロップアウトしてつくった会社が立ち上がっていた。頭ごなしに否定して、そちらに行かれても困る。おそらくそんなところだったと思う。週刊化の話は、誰からも否定されず、とは言え大した賛意も得られないまま、「まあ方向性としてはいいんじゃない」みたいな感じで収まった。おいおい。
15年も経ったので言うのだけど、当時、幹部社員の給料は大した理由もないのにかなり上がった(一般社員の給料も、そのあとで上がったと記憶している)。人材の流出を食い止めるためとは言え、あまりに露骨な措置だった。ま、給料が上がるのは素直に嬉しくて、下がれば絶対辞めてやる畜生! と思うのが人の常ですが。
どんな週刊誌をつくるのか、考えまるでなし
人材の採用を率先して行なった。「週刊化」がまだ会社に承認されたわけでもないのに、人集めだけは粛々と進めた。このころ採用した人材が、現在の週刊アスキーのコアスタッフである。チミたちは会社の承認を経ずに入社したのだから、当時のサラリーはオレに返却するべきだと思う。うむ。
正直に言おう。この時点ではどんな週刊誌をつくるのか、まったく考えていなかった。そう、本当になーーんにも。でも根拠のない自信だけがあって、勝てるシナリオがあるから、と平気で周囲には話していた。そんなものあるわけないじゃん。
4月からは部署としても独立して、ひとつの編集統括部となった。マネジメントのほぼ全権を負託され、最初に行なったのが引っ越し。そのころは初台駅を出てすぐのビルにオフィスがあったのだが、甲州街道を挟んで反対側のビルに移転した。そのビルに入っているアスキーの部署は、自分の部隊だけ。まさに城。もうやりたい放題。
酒鬼薔薇事件の起きた初夏、僕たちは梁山泊となることを選んだ。いや、選んだのは自分で、スタッフは巻き込まれただけだ。が、そのときはほかの選択肢など思いつかなかった。
「週刊誌にするとまわりのほうが変わるから」
唯一の拠り所は、浜村編集長(当時)のこの言葉だけだった。“徒手空拳”──学生時代の同級生が教えてくれた今でも好きな言葉。この言葉どおりに、このとき、僕たちは週刊誌をつくるノウハウもスキルも持っていなかった
●11月25日開催のASCIIフェスで、週アス・月アス歴代編集長によるトークセッションをご用意しております(11時15分〜)。ご興味のある方は、是非お越しくださいませ。by ACCN
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