週刊アスキー

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松岡正剛と鈴木健対談のタイトルが入ります【第2回】(仮)

2010年01月14日 20時37分更新

大乗思想がないよね(松岡)
松岡正剛対談

松岡 ちょっとね、きっかけになるかと思って話しますが。さっき日経のインタビュー受けたばかりでここに来たんですが。それは、丸善が丸の内のオアゾ店の4階に、僕に本屋をつくってくれないかというので、まつまろ?本舗というちょっと変わったのをつくるんですね。まあ、それのインタビューを受けてきたんだけれども。必ずさ、ウェブにおける、そのアマゾンや出版や、そういうチ(地?)の動きと、そういう事態としての本の関係はどうなのでしょうかってすぐ聞いて、しかもキンドルは日本でもやらないんですか、と。その、やっぱり松岡さんなんかはキンドルをやれる方としてはかなりの立場にいらっしゃると思うんですがっていうから。いやあ、そのキンドルをやるとか、アマゾンをやるとかっていう質問にしないでほしいと。その、チ?とか書物をどうしていくか、そういうことはもちろんいろいろ考えているけれども、アメリカがこういうことしたからとかっていうような、型の上になりたって何かをやりたいわけじゃないからってことで、いうんですよ。そういう感じが常にするよね。

福岡 そんなところで、今日一人目に鈴木健さんになったのは…(以下、再び趣旨説明)。一発目に。

松岡 大きい話を、と。

福岡 日本はそのなかでそうしていけばいいんだろうということを一回目にもってきたくて。

松岡 ああ、そうしないとな。

鈴木 では、ちょっと大きく話が出たところで。僕自身が一番興味があるのが、その、ちょっとムービーのほうをご覧になったかどうかわからないんですけど。私的所有?の生物学的きげき?という。ご覧になって?

松岡 いや、ええとね。公正的契約?をとか、ええと。ゲーム??とかは読んでますけど。

福岡 いや、1回お見せした。

松岡 最初の? ああ、あれは見た見た。

鈴木 アニメーションの。

松岡 見た見た。ムービーね。はいはい。

鈴木 まあ、あの、細胞からはじまって、ここからって。

松岡 うんうん。

鈴木 ま、なんかオモチャみたいな。イラストはそんなあれじゃないんですけども。もともと、イケガミタカシ?のところでフクザツケイ?やってて。まあ、細胞というか、そもそも私的所有?みたいなものっていうのが、まあ、もう、400万年?前の細胞から始まってると。そのいろんな、その、あの、アケイ?みたいなもののパターンが生まれてきて。今のたとえば近代国家とか資本主義のシステムっていうか、そのなかのひとつの、なねいうか、生物学的な、パス?のひとつなんだろうというふうに僕は思っていて。で、まあ、いろいろ問題はあるんですけれども。それをちゃんと原理から理解することによって、で、何らかの形で変えていけるんじゃないかってところが、一番興味があるところなんですね。で、今日はぜひ、その、僕、今、ちょっと意識?とかにすごい興味があるので、そういう話を含めていろいろとお話をうかがいたいなと思っているので。

松岡 今のね、考え、その、生命の情報コウブンシ?が、生態学?を作ってね、パッケージを作って、情報交換を始めた。もうそこから始めればすべてこれだよね、簡単にいえば。そこで、4チャンネル?を作ってカリウムとナトリウムをうまーく組み合わせて。そうして、その、まずいえばクッキー?を始めたわけでしょ。だからその、複写?複製?

鈴木 自己複製。

松岡 自己複製を始めたわけですよね。で、まずこれを、その全社会は一時も忘れるべきではないと思うんですよ。で、次に、その、しかし、こう、ミスコピーというか、誤植というか。さまざまな、コピーミスが起こるわけで。で、これは遺伝子の突然変異として解釈されているわけだけれども。実は新しい意味がいろいろそこで登場しちゃうと。で、重要なことはまあ、鈴木さんもイケガミ?さんもそこはよくわかっていると思うけれども、文脈依存型?にアクティビティを上げていく場合とね、文脈フリー型、自由型?コンテクストイディペンド?型?とコンテクストフリー型に、もともと生物って戦略?を選んでいて。そして発展してきたわけですよね。だから初期の、その、生物たちは、その文脈自由、コンテクストフリーに、自由にやってった。だけどちょっと、こう、手が出てきたとか。その、はしご状の神経系が出てきたとか。まあ、両生類的に言うと、結局、内と外、外側を堅くしようと。内骨格?にしよう、外骨格?にしようとかってだいたいデザインが決まってくると、設計が。まあ、ハードデザインだよね。そのハードのシステムデザインが出来上がってくると、今度はそれの文脈依存、コンテクストディペンド?ってなんだろうと思い始めて。昆虫は昆虫に、爬虫類は爬虫類に、まあ、オポッサムとかネズミとか私たち哺乳類はこうしていくっていうふうになっていくわけで。これ次に忘れてはならない。ね。

鈴木 そうですね。内部に、身体の内部に記憶を持つようになったっていうことなんですよね。

松岡 そう。で、持つし、その持ったものと外部環境の相互作用によってどんどん入れ込んで勝手にやるのか、アメーバのようにね、それともたとえばカマキリはこういう葉っぱしか食べない、テントウムシのナナホシテントウはこっちの葉っぱ、10のテントウムシはこっちっていうふうにコンテクストを決めていく、と。これってね、考えてみると、途中飛ばすと、言語がなぜ各民族や部族やによって、たとえばアイヌと日本語、韓国語は変わっていくわけですよね。マンチュウイ?もマンシュウ?も変わっていく。あるいはフランク王国?とは、国家としてはフランク王国?だけれども、民族の言語はいろいろである、というようなものを選択してそれにこうすがっていくということとまた関係あるわけですよね。だから今の今日のウェブ社会とか、ネットワーク社会とかコンピューター社会とか、高度情報社会?とかというふうに呼ばれているものは、いったいこういう流れの中の、全部言えばそこの中のパースにあると。まあ、鈴木くんがいっているようにそうなんだけれども。それのどのへんを、ちゃんと吸収できたか。継承できたか。いやまだまだ生命はその、こう、情報の歴史のなかの一部しかまだやってないのかどうかということはこれからでしょうね。

鈴木 ああ。確かに。まあ相当、生命現象?に、の、既存のね、今すでにある生命現象?に学べるところっていうのもあると思うし。もうひとつは、その、身体って、からだがあって、環境とのインタラクション、その相互作用によって、なんていうか、まあ、文明とかそれからほかにも、ええと、さまざまな文化とかってのも生まれてきていると思うんですけれども。それ、コンピューターなんかは新しい道具で、たんに繰り返すってだけじゃなくて、なんか、いまだちょっと現れてなかったようなものが生まれてきたらいいなっていう、妄想があるんですね。これは全然、確信まではいっていないんですけれども。で、まあ、だからコンピューターが現れてきたことっていうのが、いったい、この世界における意味ってなんなんだろうって考えると。ある種の、なんか、ニンチシンタイ?っていう認知システムと、それから物理世界との間に、すごいなんでもできるミドルウエアみたいなものがブワーっとできた、と。そのミドルウエアを使って、まあ、それインタ○○?だったりとか。いうものだと思うんですけれども。ミドルウエアをぼーっとつくったことによって、そこでなんらかのエグゼーション?とかシメーション?とか、って行うことによってものすごくリッチな、新しい、たとえば人間が言語を獲得したってのも一つ、相当新しいのと同じくらい新しいインパクトが、生まれてくるんじゃないのかなと思っているんですけれども。ただ、コンピューターが生まれて50年、それからインターネットが相当人々のなかに使われるようになって15年くらいたってると思うんですが、いまだ、そこまでまったくいってないなっていう。ほとんどあまり変わってないんじゃないかなっていう、気の?、僕はそういう視点ではあるんですね。

松岡 それ、なんでだと思う。

鈴木 うーん。やっぱり。グーテンベルグ?なんかもそうですけど、300年くらいかかるのかな、みたいな(笑)。

松岡 ああ、そうか(笑)。

鈴木 今、違いますけど。人間自体だと? 道具との?キョウシンカ?だと思うんですよね。で、そのキョウシンカ?が起こってくるので。その、道具だけ?先走っても、なかなかうまくいかなくて。そこに人間の文化とか感じ方とか、触り方ふれあい方みたいなものが、一緒になってキョウシンカしていかなきゃいけないと思うんです。それがまだちょっと、何世代かたたないと難しいのかなと思うんですが。

松岡正剛対談

松岡 それ、なんでだと思う。

鈴木 うーん。やっぱり。グーテンベルグ?なんかもそうですけど、300年くらいかかるのかな、みたいな(笑)。

松岡 ああ、そうか(笑)。

鈴木 今、違いますけど。人間自体だと? 道具との?キョウシンカ?だと思うんですよね。で、そのキョウシンカ?が起こってくるので。その、道具だけ?先走っても、なかなかうまくいかなくて。そこに人間の文化とか感じ方とか、触り方ふれあい方みたいなものが、一緒になってキョウシンカしていかなきゃいけないと思うんです。それがまだちょっと、何世代かたたないと難しいのかなと思うんですが。

松岡 僕はね。あの、まあ、人間と、その、機械あるいは道具、場合によっては環境との間のミドルウエアであるコンピューター世界がですね、あるのは間違いないんだけれども。ただそのミドルウエアっていうのは、書物もそうだったし、演劇もそうだったし絵画もそうだったし、写真もそうだったわけですね、映画もミドルウエア、映像もですね。だからその、ミドルウエアとしていったい人類はなにを作ってきたのか。で、演劇、舞台もミドルウエアですよね。で、ありとあらゆる神話の?再生もできるし、恋もできるし、死もシミュレーションできたと。で、たとえばシェイクスピアの劇場は世界劇場とまさにいわれて、アニマムンディ?としての再生装置としてのミドルウエアだということを高らかに宣言したわけだし。そうでなくても書物はずっとミドルウエアの役割をいまだに果たしているわけですよね。というふうに考えると、そのコンピューターは、それらとは別の進化を遂げようとしたり、ミューテーション?になろうとしているのか、それらのミドルウエアを一切、吸収しようとしているのか、僕はまだね、見えてないんだ。

鈴木 ああ。今、起きているのはどちらかというと、吸収していくほうというか。雑誌を全部、ウェブにもってきたりとか。テレビをウェブにもってきたりとか。

松岡 百科事典を入れちゃうとかね。

鈴木 そっくり入れちゃうとか。既存の?メタファーで、やってることはすごく多いんですね。でもたとえばインターネットで起きている、2ちゃんねるの文化とかも実は江戸時代のまあ、その、レイ?レン?の文化とか、そういうものをたぶん、再生しているように見えていて。じゃあ、本当に新しいのかっていうと、まあ、万葉集の文化とかもね、今の2ちゃんねるの文化は持っていると思うんですけれども。そういうのとか考えると実はそういうものを取り込んでいるっていうか。本当の意味で新しいっていう、本当の意味で新しいってあるかどうか、そもそもね。別なんですけれども。あの、いう気はしますね、やっぱり。

松岡 うーん。となるとあれだよね。その、コンピューターや、コンピューターネットワークが持っているしくみのなかに、ひとつはそれらが吸収できるという可能性や技術がどこまであったのかということと。それからそれを取り巻いて作り上げる、コミュニケーション文化や社会というものはかつての演劇だとかそういうものが仮になくなって、全部コンピューターのなかに入って、今さっき鈴木さんが言ったニンチシンタイのようなものがね、それでもちゃんと維持できるのかどうかっていうのが、いっぺん問われなきゃいけないだろうし。

鈴木 はい。

松岡 ふたつめは、その、あれですよね。コンピューターによってつながったというようなことは、たとえばゼアというわけですよね。あれはね、向こうとか、あちらと。

鈴木 彼岸。

松岡 彼岸ですね。あちら、というのは能舞台にもあちらはあるし。それからタルコフスキーの映画にもあちらはあるし。ええ、アーサー・クラーク?のSFも、あちらがあるし。ディック?はまさにあちらとしてのバリス?を書いたわけで。たとえばああいう、想像をしながら彼らはミドルウエアを作ってきたわけですよね、演劇も。ところがコンピューターって吸収はするけども、コンピューター自身を使ってたとえばバリス?を作ったとか、サイバーパンク?を作ったとか、ロミオとジュリエットを作るんじゃなくて。ロミオとジュリエットは入りますよとか、もっと簡単なライトノベルは作れますよとは言っているんだけれども。でもたとえばですよ。マンガというものはすごいミドルウエアだと思うんだけれども。その、マンガに吹き出しが出て、たとえば吹き出しのなかは日本語の場合は漢字はゴシックで、かなは明朝にして、で、シトシトだとかジーンだとかジトジトだとかギョッだとかっていうオノマトペをたくさん作った。あの、マンガ文化に匹敵するようにたとえばコンピューターは絵文字をね、そこまで多様に作れているかというと、全く作れていないですよね。

鈴木 うんうん。

松岡 だからね、そう見ていくと、コンピューターの可能性を僕はすごく期待はしているし、どちらかというと、がんばてもらいたいんですが。やっぱりでも今のままだと、なにか。なにかのですね、勘違いがどこかで起こってる。つまり、ソウハツ?してないんじゃないかと。

鈴木 そうですね。

松岡 簡単に言うと。それはどうしてなのかなって思うんだよね。(松岡氏、電話中)なんでソウハツできないか。それはさ。鈴木くんも書いてたけども、その、バベジ?がね。会社機関を作ったときの前の出来事を書いてましたよね。あれはすごく大事なところで。あれを書かないとそれこそ、ホッブス?からバベジ?まできたね、流れって、社会が何を必要として何をミドルウエアをとして計算しなきゃいけないかっていうことは出ないんだけれども。なかなか、あのへんを書く人って少なくて。バベジ?以降、もう、ジャガードオリ?次はエニアック?次はメメックス?。で、アランケイト?も、そっちかわはずっとあるんだけれどもね。

鈴木 その前の。

松岡 そうそうそう。近代国家を作って、記録も記憶もしなきゃいけないと。ちょうど、今の社会保険庁がね、全部厚生年金の記録を持ってないのは問題であるというように、ホッブス?の時代、あるいはロック?の時代にそういうふうに思ったわけですよ。だからあれはもう国家が、今日でいうコンピューターメタファーのようなものをちらっと持ってた時期だよね。だけど計算できない。きちっとした統計も出せない。そこで、カイサ?機関とか、デバランスエンジン?がおこってでてきましたよね。あそこ、もう一回やり直さないと、やっぱりだめじゃないかって。

鈴木 コンピューターってなんなんだろう?っていう、一番最初のところに戻って考え直さなきゃいけないと思うんですよ。で、その、あの、僕自身は、そのコンピューターの可能性の、そういう意味での中心っていうのは今までのメディアにあったものを持ってきただけだろうというのの、例外は、可能性の中心に1個だけあって、ゲームだと思うんですよね。

松岡 ああ、なるほど。

鈴木 ゲームってもちろん将棋とか、昔からゲームってあったと思うんですけれども。いわゆるコンピューターゲームっていうのは本質的に新しいところがあって。

松岡 ふーん。

鈴木 インタラクションがものすごい、0.01秒単位のインタラクションっていうのが、常にコンピューターと我々の間で行われている、と。それは意識の入らないところの認知レベルでそれはすごく行われている。もちろん、その紙で本を読むっていうのも起きている?んですけれども、その時に、メディアのほうの、側?が、裏側で莫大な計算となって世界が事実的にどんどん動いていってしまう、と。で、こういう、あの、ことって結構新しいんじゃないかっていうのをひとつ、思ってます、と。もうひとつ。その、今。

松岡 それは、その将棋とか、トランプなんかの、まあ、名人クラスたちが0.1秒で考えていることとは違う意味で、コンピューターゲームというものはなんか、それとは別のことをやり始めているだろうということね。

鈴木 そうですね。

松岡 ああ、はいはい。

鈴木 それはやっぱり、その、シミュレーションというものが持っている強力なパワーというものがたぶんあって。それはゲームという場を媒介して?して100万人とかの人たちがインタラクションしてしまうわけですよね。

松岡 そうね、それはなかったよなあ。

鈴木 それは相当新しいかなと。シジョウ?とかが発明されたってのと同じくらいインパクトが。オンラインゲームにはあるんじゃないかという気がしていて。で、そこの媒介のさせ方っていうのが、ある種、その僕、貨幣というものも含めてメディアっていうのは、その、なんかを交換するものとか、媒介するものというよりかはそこにかかわる人々が全く違ったモチベーションや全く違った解釈の仕方をしているにもかかわらず、そこでコミュニケーションが成立してしまうことだと思うんです、ゲームもそうだと思うんですけども、コップといったときに、コップにという言葉をもって感じ方は人によって違うのに、そこでコミュニケーションは成立してしまうわけで。っていう可能性っていうのが、その、なかで、コップという言語みたいなメディアを使うのに比べて、コンピューター、オンラインゲームというメディアを使うっていうのはそこの可能性を爆発させるんじゃないかなっていう気はするんですよね、そのプログラマーがそれをいじることによって世界を、こっちのモチベーションとこっちのモチベーションは全く別なんだけど、それを結びつけちゃうっていう。技術ですよね、テクニックが爆発的に今、ものすごい勢いで技法というものが

磨かれている状況になっていて、これは結構新しいんじゃないかなって。

松岡 僕もね、ちょっとはそれは感じます、ちょっとっていうか、半分、3、4割くらい。

鈴木 ハハハ、はい。

松岡 まずそれはね、確かにワールドカップとかチェスの大会とかっていうのは、いくら世界を巻き込んでもサッカーであってチェスでありますよね。で、だけど確かにオンラインゲームというのはそこにものすごい数が加わりながら。あ、たとえばロック、はゲームではないけども。それもたくさんの、人たちが熱狂しますよね。

鈴木 そうです。

松岡 だけどそこで計算がおこなわれていたものが全部記録に残って、システムとして、鈴木さんが言う言葉でいうとシジョウに近いものまで形成しつつあるというのは、確かおもしろいところだと思うんですよ。でもそれは、ここにも書いてあったけど、シジョウがセンコウされるというふうに書いているよね、そこには。先取り、あるいは芽生えが起こるのではないかと。オンラインゲームから。

鈴木 はい。

松岡 で、メカニカルタルク?なんかの例を出して、その、ああいう、こう、メカニカルターキー?さんは、すでにその仕組みをつくることによって、自分が気が付かない未知のシジョウ、マーケットの萌芽をつくっていると。

鈴木 そうですね。

松岡 あそこからだね。もうちょっと説明を聞きたかったのよね。なぜ、そのオンラインゲームをやって、メカニカルターク?のようなもっとすごいものがたくさん出てきて、そこに100万人が出てきて、コンマ1秒の計算量が増えると、既存の取引や通貨を媒介にしないで、その、なにがシジョウ的に起こってるの。欲望がそこで交換される状態に近いことが起こってるのか、それとも、その、市場取引が結局は、たとえば最大需要と最大供給がバランスとっちゃうようなことを早くゲームが起こせるということを言っているのか、そのへんはなんなの。

鈴木 人間が持っている、なんていうかな。シンタイの多重性?とか、この、多重性がふくらむんじゃないかって思ってるんですよね。

松岡正剛対談

松岡 ほお。

鈴木 どういうことかっていうと、つまりその、ゲームをやってる自分っていうのはいわゆる近代的自我の自分?ではないわけですよね。しかもゲームをやってるプレイのタイミングとか、ゲームの種類ごとに全然違う自分が出てくるわけですよ。つまり、キャラクターっていうふうにいったりもしますけど。そのゲームをやったりするってこと自体がものすごく、近代的な、あなたは一個の個人で人格を持ってなきゃいけないっていう考え方に対して、そんなこと必要ないんだよってことを提示してくれちゃってると思うんですよ。

松岡 ゲームが?

鈴木 はい。それをいろんな人々が持っている欲望って、ある種、僕っていうひとりの人間が持っている欲望とか、モチベーションのガク?とかってことは、まさに矛盾したものがたくさん、この身体とか心の中にもぐちゃぐちゃにたくさん入ってるガク?ですよね。そのなかのほんの一部だけをぽっと取り出して、で、ほかの、世界中のだれかのをまたほんのちょっとした別のものをぽっと取り出して、それをなんかマッチングさせちゃうみたいな。

松岡 ああ~。

鈴木 だから身体の一部と身体の一部ですよね。だから、認知システムの一部と認知システムの一部がくっつくっていうものを、ひとりひとりの個人と個人を結びつけるっていうふうな、なんか。そうするとシジョウとかそんな感じじゃないですか。っていうのは。もっともっと小さな欲望を効率的に、ここの欲望とこの欲望を結びつけようってものがものすごくミクロにプログラマーが設計できるようになってしまったという。

松岡 ああ、それはね。

鈴木 だから多重人格化なんですね。

松岡 なるほど、それはおもしろい見かただよね。そうか。あのさ。単にひとりの、身体が、存在がっていうか、ユーザーがっていってもいいけど人間が。いろいろな人間に、欲望で転化するっていうなら、エルメスのバッグっていったり?、ラーメン食ったりね、野球見たり、結婚したり、子供を育てたりするたびに、何重もの多重性を発揮しているわけですよ、そこまでは別にオンラインゲームを持ち出さなくてもやってきたわけだよね。

鈴木 変わらないですね、はい。

松岡 しかしオンラインゲームではそうか、それをちょっとずつ一回ずつやったことが同時、あるいはないしは、一つのフィールドのなかで全部起こってしまうので、交換がそこで起こると。

鈴木 そうですね。

松岡 なるほど。エルメスのバッグったり?、ラーメン食ってるのは、自分は多重にはなるけれども、それを相手と交換しているわけじゃないもんね。

鈴木 そうです。ちょっとひとついい例として、ちょっとかかわってるサービスがあって、リグレト?っていうサービスなんですけども。あの、簡単にいうと、凹むと、へこみに対してなぐさめてくれるというサービスなんです。たとえば、ちょっと、えーと。雑誌的に話していいようなものじゃないと難しいんですけど。

松岡 これ、ひとりひとりは書き込めるの?

鈴木 ええ。そうです、ひとりひとり書き込めます、匿名でですね。たとえばミクシイでうれしいことがあって、友達に話したら一言「よかったね」だけで終わっちゃったと。共感してほしかったけど、共感してくれなかったってだけのやつなんですね。で、そうしたら他の人が、「よかったね」と表情はまあその、きっと大きな笑顔だったと思うよってなぐさめて。

松岡 ツイッターがまるくなってるようなものなの?

鈴木 そうですね。で、なんですけど。必ずここに、凹む、なぐさめるっていう、ひとつの型が決まってるんですね。

松岡 ああ。ああそうか。それが。

鈴木 で、これはひとつの。

松岡 それはコンピューターが判断するの、ユーザーがそっち側を選んでるの、なぐさめのほうとかを。

鈴木 いや、これは凹んだらなぐさめてくださいっていうサービスなんです。

松岡 ああ、そうか、そうか。

鈴木 なんですけど。実際にはなぐさめないで、批判する人とか、お前が間違ってたっていう人がいてもおかしくないじゃないですか。

松岡 そうだね。

鈴木 ところが、普通のたとえば掲示板的なシステムでやると、たぶんそういうことがすごく起きるんですけど、これはほっこり、かわいいですよね。なんか全体が。

松岡 うーん。

鈴木 色合いとか、あとインタラクション?

松岡 なるほど。なるほど。

鈴木 インタラクションのデザインとかで、思わずなぐさめたくなっちゃうものなんですよね。これって掲示板では絶対できないことなんですよ。フラッシュのインタラクションじゃないとできない、シンタイ的な、とか、色合いとか、そういう、このもやもや感のかわいさとか、このヘコミン?っていうキャラクターのなんか、あれしてるかわいいとか、そういうのがあるんですね。で、これで凹む、なぐさめるってやって、その、ええと。(ピコピコ…)やってですね。ええと。(ピコピコピコ…)どういうコミュニケーションがされてるかっていうと、最後ですね、これ、凹んでいる人に対してその、なぐさめると、なぐさめた人に、まあ、あとでちょっとあとでお見せしますけど、待ってくださいね。(ピコピコ…)たとえばここで凹んだことを打ち明けておきますね、(ピコピコ)ええと、なににしようかな。たとえば「大雨が降って、家が浸水しちゃった」とか。まあ、なんか書きますよね。そうするとあとで、なぐさめがたくさんくると思うんですけども。

松岡 ふむ。

鈴木 で、どういうふうにみんなやってるかっていうと、たとえば「ダンナと殴り合いをして勝った」とか(笑)。なんか、まあいろいろ「おめでとう」とかいったりとか。あとは。「みんながなぐさめを100個なぐさめをくれたら、今夜、最悪最低浮気の男にさよならを言います」と言ったら104個集まって。そうしたら「本当になぐさめ100個もらって感激です、今からきっぱり別れを告げてきます」「よし、がんばれ!」と言って。

松岡 ふうむ。

鈴木 それでなんか。「最後、握手して別れました、みんな感謝です」とか。こういう風にコミュニケーションが行われてて、これ100人の応援がなければ彼女はできなかったのかもしれないわけですよね。

松岡 うんうん。

鈴木 そういう、ちょっとした、人々が持ってる小さなものとか、バット?なんか。とらのこの元気?なんかも集めて、みたいなこともおこなわれたりしているんですね。これ、善意が駆動している?のはものすごくインターネットでは珍しくて。その、善意だけど久駆動する?ようなインタラクションデザインというのを、あえて設計してやってるんですよね。

松岡 なるほど。で、それってたとえばぬいぐるみをつくるとか、ペットの、なんか、農場?いってみんながなぐさめられるとか、あるいは人生相談するのと何が違うかというと、それが、ええと?、速いスピードでたくさんのものがすでにそこに生じるからなの?そこがよくわからないんだけど。この、なぐさめとか善意ということが成立している行為は社会的にはいろいろありますよね。温泉もそうかもしれないですし。

鈴木 そうですね。

松岡 修学旅行もそうかもしれないし、ペット?もそうかもしれない。だけど、それらが、大量の計算力を背景にしてたちまちおこると何が違うんだろうか、そういうものと。

鈴木 そうですね。あの、そういうものの、なんていうかな。が、おこるような制度っていうのは徹底的にチューニングする技術が発達してかつそれが日常の世界にに入ってきているということだと思いますね、日々の一瞬一秒が切り取られているわけです。この、慰めている人も、普通に、駅の地下鉄だったりとか、仕事中だったりとかで、携帯電話とかで投稿しているわけです。一瞬一瞬が、たとえばそういう温泉にいくとかっていったら、1日とか、準備とかも含めて、場?の中に入っていくというプロセスとやっていくわけです、空間、ここでこういうことを体感するっていうこともそうなんですけど、それは空間設計なんですけども。それが、みんなその、1日を生きていくなかで、あるとき、30秒だけリグレト?にアクセスして、こういうことやったら次にこっちのほうでこういうことやってって、切り取られていって、多重の世界を常にパラレルに生きてくっていうことがおきていて。それが100万人みたいな人たちがこっちいったり、あっちいったり、ばーっとやってインタラクションしているっていう、なんか、ちょっと新しいのかなっていう(笑)。

松岡 ふむ。常に、意識のシナリオっていうのはどちらかというと、こう、異常に?フラクチュエイト?しているんだけれども、実際の人間の行為っていうのは剛直で?温泉いくなり、ペットのえさをやるなり、それなりの固定的な時空間に入るんだけれども、意識の中に潜んでいるものすごく、速いスピードでフラクチュエイト?している、たとえば、これはなぐさめだけれども、怒りだってさーっと出てくるわけですよね。

鈴木 そうです、そうです、さーっと出てきたりするんです。突然、怒り始めて、別のなんかね、ブログで炎上しちゃったりして。

松岡 なんか変っていうのでもいっぱい集まるわけでしょ。これっていうのは、なんか変って、僕らもこうやってふだんなんかしゃべってても思ってるけどどんどん、通り過ぎると。

鈴木 そうです。

松岡 しかしこの仕組みはついにそういうものを制御しながらそういうものだけを集められるようになったということね。

鈴木 そうです。人格的一貫性って社会的に要求されてくるじゃないですか。なにかできると?

松岡 そうそう。そこに対する、なるほど?

鈴木 それが変化が起きているんじゃないかなっていう。

松岡 ああ、そうかそうか。

福岡 あの、多重人格的に認識○○?

鈴木 そうです、はいはい。今ちょっとだから、その、多重人格の話とか、身体が複数あるって、まさにポストモダンとかでもね、いわれてきたことだと思うんですけれども。その道具にはなっているのかなって気はしているんですけど。たとえば、民主主義ってもの自体も、もっと多重人格的なものにできないのかなって考えていて。で、もともとやっていたピクシー?という貨幣システム自体も、その、ある一人の人間っていうのが実は複数の人との依存関係の中で取引という依存関係の中で生きているってことを意識化させたいっていう貨幣なんですけども。もっとラディカルに、一人の人間が持っている多重人格性みたいなものを持った意思決定システムですよね。民主主義っていう、みたいなものをつくれないかなと思って、それどういうことかというと。まあ、民主主義の問題っていうのはある種の決断主義を個人に要求するってことですよね。おまえは、たとえば民主党に投票するのか、自民党に投票するのか、選べとか。日本人ってこう行動するのか、こう行動するのか選べ、みたいな。Aor NotAを選択を、ひとりひとりに対して行っていくと。で、ひとりひとりに対して、その、おこなったときに、それ矛盾しているんじゃないのってことを常に、要求されて。自分が政治的な何らかの意見であるとかって対して一貫性を要求され続けるってことを、ひとりひとりが行ったものを、投票行動?にかけてそれを足し算をしていきます、と。そうした結果というものが意思決定になりますってことになっていると思うんですけど。これって本当に正しい、なんか、集合的な?意思?の集め方なのかなっていう(笑)。僕それが疑問で。

松岡正剛対談

鈴木 絶対無理です。

松岡 だよね。

鈴木 でも基本的にはやっぱり、ニンジン言語学?とかで、身体を持っている。って、たまたま脳が発達してそこから言語がやってきているわけなので、身体性っていうのを引きずっているわけですよね。内臓感覚というか。そういうのは言語にもダイレクトにきいてきて、それも、内臓も含めて言語なわけですから。グーグルには内臓もまだ、ハハハ。そういうわけですよね。だから、文字列だけ、ストリング?だけどんなに集めても、そこの、ほうは作ることはできないと思うんですけど。

松岡 それからですね。内臓感覚がたとえば、彼らがいやいや、腹黒いとかね。その、問題はその、ええと胸の問題だよとかね。だってそういうことがあるんだからね。その、腹の虫とかっていうそういう言葉を集めればなんとかなるんじゃないかと彼らは思うかもしれないけど絶対ならないのは、シチュエイテッドではないから。

鈴木 そうですね。

松岡 その、状況が出てこない。いくらやってもね。だから結局、ピアトゥピア?の検索にはつかえるんだけども、場面的、局面的、シークエンシャル、シチュエイテッドなものには使いにくいっていうか、かなり使えない。もしグーグル的なものを、さらに何かに、今のような話をしたければ、そのバッドか?、シチュエイションのほうを、別個、システム側が作って、これと合わせないとだめなんだ。これはまだね、グーグル的なものからは生まれてきていないんですよね。

鈴木 そうですね。あの、たぶん、便利である程度の、限定で使えるものは生まれてくるとは僕はでも思っているんですね。今の、グーグル自動翻訳とかはひどいですけども。シチュエイションとかに関しても、画像認識とかの技術が最近すごく発達していて、もちろん、こういう微妙なコミュニケーションが把握できるようになるとはまったく思えないんですけれども。なんだろ、異国人同士のであったときの、最低限のコミュニケーションのフォローアップ、7割は大丈夫とか(笑)。そういうところまではカバーできる可能性はあると思いますね、とにかく画像認識っていうのはすごい、きてますね。とくに、その最たるものが、オーギュメンテットリアリティ?とかの技術のやつで。画像認識をスゴイしてやるんですけれども、そこが、なんか僕が予想しているよりも速いペースで技術が進んでいるなというふうに。2,3週間に1回は、「なに?こんなことがもうできるようになったの」っていう技術が。

松岡 なんで画像が早いの。そこまでやれるの。

鈴木 ん?

松岡 なんで、言語よりも画像のほうが、そういう可能性がちょこちょこ、出るんだろう。

鈴木 たぶん逆に、そうだな、なんでだろうな。驚きが大きいのかな。言語のほうがもしかしたら、単なる画像認識でこれがコップだって認識するよりもリッチなんじゃないですかね。

松岡 まあ、画像のほうが複合的なんですよね。言語はやはり単一的だと思われ過ぎていて。さっきも言ったように、そうじゃないんですよ、だけど、使う側はそうじゃないんだけれども、オブジェクトとしての言語よりも画像の、一枚のね、画像の持っている複合力のほうが高いから、かえって解析可能なのかもしれない。

鈴木 そうですね。そのシチュエイテッドっていうのはものすごく深いんで。今はただの画像認識っていうのをはるかに超えたものなので、そこまではまあ、いくとは思えないんですけど。

松岡 ああ、そうだよね。

鈴木 シチュエイテッドは深いですよね。やっぱりそこを根本的に、コウガク的なやり方を提示して今はそういうやり方でやっているんだけど。サイエンスとしてはロボットでね。認知ロボティクス?つくって、ロボットに言語学ばせるとかやってるんですけど、そこでどこまでいくのかっていうと、ものすごい厳しい世界ですね。なかなかロボットは言語を覚えてくれないっていうか(笑)。でもそこからやらないと本当はわからないというのは、ブルックス?とかが言ってたことでもあるんですが、それは正しいと思うんですけど。非常にそういう意味では、なんていうかな。本当にカメの歩みのような感じで進んでいて。そこに逆にグーグル的なアプローチでこんなに使えるじゃん!ってみたいな感じできているので、ウサギ?みたいに?なっちゃってる。僕としては、そういう、なんていうか本当の言語の理解に向けたアプローチっていうのはしっかりやらなくてはいけないし、そっちのほうを応援したいんですけど。社会の先生は(笑)。ハハハ。ゆっくりつくりましょうみたいな話で(笑)。

松岡 ああ、もちろん、もちろん。そうだよねえ。

鈴木 言語の持っている、ものすごい深さっていうのは、リストアップすると本当にたくさん、膨大になると思うんですよね。で、でもやっぱりどこかに鍵があるんじゃないかって。進化的に。っていうふうに思ってる人たちもいて。でも、その学説もすごくたくさん種類があるんですけど。あの、松岡さんが考えている、もし鍵っていうのはなんかあると思ってらっしゃるんだったら、それを教えていただけるとすごいうれしいなと。

松岡 鍵の一つはですね。今も言われたけれども、進化的というか、発生論的というかね。やはり言語が発生したときの、古代言語のファミリー、ベイシックターン?そういうものをもう一回やるのが非常に重要ですね。

鈴木 なるほど。

松岡 たとえば、日本語で言うと、まあ、まず英語で言うとリバーという言葉は一本の線があって、両側になにか分かれているという、語源をもっているわけですね。だからライバルという言葉はリバーと一緒にくっついているわけですよね。

鈴木 うむ。

松岡 そこは単にライバルという我々が思ってるもの以上に、川が見えたり道が見えたり教会が見えて、ってライバルになっているんですね。そういうように、じゃそれって人間の認知の中で、僕は“川マザー?”と言っているんだけれども、それ、なんか一本の線があるとなにかと分かれて対立したり仲良くなったり「ロミオとジュリエット」になったり「妹背山女庭訓(いもせやまおんなていきん)」のようにお互いの息子と娘を船で婚姻させようとか、いろんなものが、その一本の線からあって、初期の言語にリバーとライバルのようなものがふーっと同時に出てきたというふうに思えるようなことはいっぱいあるわけです。たとえば日本語でいうと“サキ”という言葉を取り上げてみると。サキというのはどうもエネルギーがいっぱいで、これ以上はいけないようなものをサキと呼んだような時期があったわけですね。それがたとえば坂とか、先っぽの先とか、酒とか。飲むとこれ以上おかしくなるとか。だから、裂く、裂ける、割っちゃうっていうような裂くとか、これ以上やると裂けちゃうとか。それからサクラのようなブロッサム、咲く、これ以上やるとつぼみがブレイクしちゃう、そういう意味で、たとえばサキ。でもこれを機械翻訳したって、ブレイクだとかカットだとか、そういうものにしかならないわけですよ。サキからぶわーっとたくさんの言語が出てきて、たとえばお酒の酒と、花が咲くという字と、スロープの坂という字は、全く別の分野に今は入っちゃってるじゃない。だけど初期は、まだうごめきがあるんですね。これをコンピューターはがんばってもらいたいと思ってるんです。

鈴木 なるほど。

松岡 それをもうちょっと、各国、各民族、しかもシチュエイションを入れて。シチュエイテッドなランゲージやシチュエイテッドなコミュニケーションというものを、システムをもってかつそういうものが動くような。まあ、これはディクショナリーなのか、このテンションディクショナリーなのか?デノテンション?なのか、いろいろなのかわからないけども、そういうものにしてもらえる道を、スタート切るのは非常に期待があるね。

鈴木 なるほど。ふうむ。

松岡 それからですね。逆にもうひとつはですね。そうやってできあがったものがある程度、部族や民族やユダヤとかフランス語になりますよね。ずっと見ていると、たとえばオックスフォードの初版と三版を見ていくと、オブジェクトとサブジェクトの意味がひっくり返ってるんですよ。

鈴木 あ、そうなんですか。

松岡 そう。これはものすごく、僕がダブル?で本を出したいって向こうが言うから、サンプルスクリプトにその話を書いてみたんだけれども、ものすごく彼らはおもしろがっているけれども。それは何かというとですね。サブジェクトというのはサーバントで、神があってサブジェクトというのは下僕型になってるわけですよ。オブジェクトというのはそれを邪魔するって意味だよね。ところがこれがいない社会になってきて、オックスフォードの三版以降は。イギリスが近代社会、さっきのロックのようなものが出てきた時代だから、これがなしで、サブジェクトとオブジェクトの意味を定義づけたわけよ。ここでひっくり返っちゃったわけ。

鈴木 ああ、なるほど、そうなんだ。道理でおかしいと思ったんですよ。

松岡 おかしいでしょ。

鈴木 なんか逆の意味だなあと思ってて。

松岡 でしょ、それは正しい。でね。こういうことが次には今度起こるわけよ。それこそがホッブス?、ロック時代以降、近代国家、ネンショウステート?とともに、言語もかつての、さっきいった“サキ”のような古代語のときにはぶわーっといってるわけ。ところが社会がこうぐーっときて、それで神様も、ニーチェまでいかなくてもですね、使えないじゃないかと、言語は言語じゃんか、意味は意味じゃんかと思った瞬間からそっから動いているわけですよ、これも次に計算して。

鈴木 なるほど。ハハハ、それは大変だなあ。

松岡 次に、かつて使われていたたとえば現代で“カワイイ”だとかね、そういう言葉が、イット?とか。さっきのゼアとか。そういうのがただの指示代名詞とか、場所の代名詞であることがもっと、今度は意識の側に今度は入ってきているから。今度はまたこっち側がまた一発ある。だから最低でも、発生したコクダイ?のところ、それから中間で入れ替わったところ、たとえば日本語でいうと“あわれ”という平安時代の言葉が“あっぱれ”という破裂音を伴いことによって、全然別の意味になっちゃったわけですよね。あわれはかわいそうだったのに、あっぱれはよくやったですから。

鈴木 そうですよね。

松岡 だけど同じ言葉なんですよ。それから今度は新しい言葉、たとえば民主主義なんて一番古くて新しいけど、全く違うってもうイヤになってますよね。こういう問題。あるいはカワイイでも、キモイでもいいですけど。こういうのがもうひとつある。この3つをとってみてもまだまだやらなきゃいけないことはいっぱいある。

鈴木 そうですね。そのへん、アプローチできたらいいんですけどねえ。相当、なかなか。

松岡 やろうよ。

鈴木 そうですね、がんばります(笑)。言語を最後にとっておくというか、一番難易度が高いと思ってて、まだ意識の研究とか、まあ、シュウゴウチ?やるとかのほうがなんか到達できるような気がして。

松岡 あのね、僕ら全部、鈴木さんのやってきたことはちゃんと知ってないけど、大雑把に見た限りは、なかなか、いいアプローチですね。

鈴木 え、そうですか。ありがとうございます。

松岡 というのは特にね、シュウゴウチとか社会契約論とか、構成?とかっていうところをまず手前に持ってきて、一方でゲーム論をずっと見てきて、そこから言語なり、コミュニケーションなりってところにいくというのは、順番としてはとてもおもしろいと思う。

鈴木 あ、そうですか。

松岡 うん。最初から言語に入っちゃうと、既存の言語学に足を取られたり、ソシュウ?の言語学で終わっちゃったりね。ものすごーく失敗している。さっきの、脳の研究や複雑系?の研究は必ずしもコンピューターでグーグルに負けてますっていうのと同じで。やっぱりその方向ややり方はよかったかもしれない。

鈴木 突破口をね、一面とか全面展開しないといけないと思ってて(笑)。

松岡 意図的にやったのかどうかはよく知らないけど。

鈴木 それはちょっとわからないですけども。そうですねえ。で、ちょっとその、コンピューテーションという話に話を戻すと、小さな意味でのコンピューテーションと大きな意味でのコンピューテーションっていうのがあって。僕はもうひとつ注目しているのは、オーギュメンテッドリアリティ?っていうところで。これはすごく大きな意味でのコンピューテーションに影響を与えるんじゃないかなと思っていて。要するに今、コンピューターのパラダイムっていうのはこういう風に変わってると思っていて、この、コンピューターって要するにサンマイクロシステムズのその、なんか、標語がありましたけど。「コンピューターイズザネットワーク」ですよね、コンピューターがネットワークだと。要するに何かの要素があって、ネットワークでつながれているものなわけですよね。そうすると、サンの場合はコンピューターネットワークされた、何十台のコンピューターも一台のコンピューターだという、インターネット全体がコンピューターだという考え方なんですけども。それは要するに、実際にはこのマックのなかに入っているものも論理素子?の、量子力学的なものでいうと、論理素子?のかたまりがサーキ?になってる。わけですよね、ネットワークになってる、もうすぎない?わけですよね。で、その、論理素子?を要素に持ったら、その、これは今のデジタルコンピューターになりますと。で、その、たとえば人間とかの、ネットワークにしたらこれはヒューマンコンピューテーション、人間計算機であったりとか、それからソーシャルコンピューテーションっていう意味になったりとかするし、もしくは別に人間が要素に?なくてもよくて、たとえばアメーバでたくさん集めて計算させてもいいし、それからなんか、生態系全体をひとつの計算機だと考えるっていうこともできるとちょっと、ガイヤっぽくなりますけども。で、じゃあ、別に生命現象に限らなくてもよくて、リュウタイ?ってそれ自体が計算してるじゃんって考えたんですね。今までのデジタルコンピューターの考え方っていうのは、とにかく世界のものをコンピューターに吸いだしていこうっていう考え方だと思うんですよね。コンピューターにイミレーション?させていこうと、コンピューターに全部のっけて行こうと。コンピューターって万能計算させるんだから?全部もってきちゃえばいいじゃんっていうのが考え方だったんですけど、そうじゃなくて、リュウタイ?は水が流れてるんだから、その計算をさせるのが一番いいよねと。水は水に計算させようと。

 

松岡正剛対談

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