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プロが求めた光の質:

「宇宙兄弟」小山宙哉先生がバルミューダ「BALMUDA The Light」を使うワケ

2019年10月25日 11時00分更新

文● 盛田 諒
提供: バルミューダ

●絵の上手な少年が漫画家になるまで

── 小山先生も子どものころから絵が好きだったんですか。

 小学5~6年生のころ美術の得意な担任の先生から絵の素質を認められたようで、京都の銅駝美術工芸高校という学校を勧めてもらったりしました。なので中学生のころはイラストレーターなど、絵を描くような仕事ができればいいなとぼんやりと思ってましたが、投稿とかは特にしてなかったですね。

絵を描いていたのは小学生のころから

── 漫画は学生のころから描いていたんですか?

 高校生のとき先生の似顔絵で4コマ漫画を描いたりして、友だちにウケがよかったことで「漫画を描くのは楽しい」というのを気持ちとして持ってましたね。高校の次のデザイン専門学校時代にも卒業制作展でみんながデザイン作品を発表をする中、自分一人日常のあるあるネタをコンセプトに漫画を描いて提出してたりしてました。当時は松本大洋さんにハマっている時期で、タッチもまねて描いてました。

── 卒業後すぐデビューを?

 デザイン会社に就職してから、自宅で持ち込み用の漫画を時間かけて描いてましたね。働きながら、友だちとバンドとかして遊びながら、ちょびちょび描いてたので、すごく一生懸命やってたかどうかというとわからないですけど。自分に漫画家としての才能があるのかどうか確認することを目標にして、持ち込み用の漫画を描いていたところがありますね。

── すぐ採用されたんでしょうか。

 86ページくらい描いたものを小学館と講談社に持ち込んで。はじめ小学館に持ち込んだら「文字が多い、せりふが多い」と言われて受け取ってもらえなくて、その晩にホテルでセリフの量を削って。それを講談社に持っていったら「面白い」ということで新人賞に出してもらえたんです。小学館のアドバイスのおかげで講談社に受け入れられたので、両方に感謝してますね。

── 『宇宙兄弟』のムッタは自分が宇宙飛行士になれると信じられずウジウジ働いていましたが、小山先生はそうでもなさそうですね。

 漫画家という夢を先延ばしにしつつサラリーマンをやってたところは同じでしたよ。働いているときはモヤモヤしてましたし。本当は漫画家のほうがあこがれがあるし、仕事は仕事で楽しもうとしていたけど、やっぱり漫画という仕事のほうが自由度が高いだろうなというのがあったんでね。

── ムッタは宇宙飛行士になってからあまり弱音を吐かなくなり、言動がプロらしく責任感を伴ったものに変わっていきました。小山先生も実際に漫画家になってからは、絵に対する姿勢や、描き方は変わってきましたか。

 最初のころは気づいてなかったことに気づくようになり、それが自分の技術になってくるというのはありますね。たとえばふきだしの「ツノ」をしゃべってるキャラクターに向けるんですけど、初めは「ツノがないただの丸のほうがかっこいいな」という変な美意識があったんです。でも、それだと誰がしゃべってるのかわかりづらい。そういう読む人にとっての違和感、ひっかかりを極力減らし、違和感なく理解できるとか、そっちを優先するようになりました。細部を使いやすくしていく、モノ作りの作業に近いかもしれないですね。

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