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見逃すことを恐れるFOMOとそれを楽しむJOMO、SNS時代にどう生きる

2018年05月23日 16時00分更新

文● 松村太郎(@taromatsumura) 編集● ASCII編集部

SNSでみんなに共有されている情報を見逃す恐怖

 ソーシャルメディアというのは、一定の中毒性を伴います。私と違って素直な方は「そうだ、いつもついついSNSを開いて10分以上滞在してし、ハッと気づく」とご自身の経験をふりかえり、頷くかもしれません。一方、「いや、私はそんなものには振り回されたくない」と頑なになる方もいるかも知れません。

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 自分はそんなはずはないという方に限って、意外とSNSからの通知に敏感になったりしているものです。もしそういう話題になって「私は違う!」という方がおられましたら、メッセンジャーか何かでちょっとタイミングをずらして、話題になった情報のリンクなどを知人に送ってみてください。意外と気にする様子を見られるかもしれません。いたずらが過ぎるのも良くありませんが。

 ただ、最近ではそうしたいたずらをするスキもなく、知人と食事に集まってもスマートフォンの画面を見っぱなしという風景を目の当たりにします。10数年ぐらい前でしょうか、とある著名な投資家の方が投資をするかどうかの指標に、当時標準的だったスマートフォン、BlackBerryが尺度になっていたと聞いたことがあります。

 投資家が話を聞いている時に、ちょっとでもBlackBerryに手が行くと、もうその場の話に興味がない、つまり投資の期待薄だという指標だったそうです。その理論から考えると、みんながスマホに熱中している食事会は、その場に誰も興味を持っていない、ということの表れだと言えます。

 ではなぜその場に来るのか。ここが今回の1つ目のキーワードとなっている「FOMO」に関係してきます。この言葉も2010年代前半から言われている言葉なのでご存じの方も多いかと思いますが、「fear of missing out」、つまり見逃してしまうことへの恐れを意味します。

 日本の小学校に通っていた方なら、席替えや遠足の班決めの日に欠席するようなものと言えば、なんとなくそのことの重大さがわかるかもしれません。席替えも遠足も、学校生活の中での一大イベントであり、席替えならその後数ヵ月、遠足なら年に1度の行事を、自分の予期しないポジションやグループで過ごさなければならなくなるわけで、世間が小学校しかない小学生にとっては、なんとしても避けなければならない欠席であったわけです。

 ソーシャルメディアでは、席替えや遠足が、自分が参加するしないにかかわらず毎日行なわれ、その様子が筒抜けになっている状態なわけで、自分の世間で何が起きているのか、一瞬でも途切れれば、すぐに「世間知らず」や「もの知らず」になってしまう。そんな恐れを指しているのです。

身体性と情報におけるFOMO

 さて、筆者がなるべく実体験の中でこの「FOMO」を説明しようとするなら、7年半前に米国に引っ越してきたことそのものを例に挙げるべきでしょう。SNSを数時間チェックしなかったでは済まされない、そもそも今まで暮らしてきた都市から引っ越していなくなってしまいました。

 予期していたこととはいえ、友人とのつながりは極端に弱くなりました。SNSでつながっていたとしても、連絡して会うことができる人なのかそうでないのか、という違いは意外と大きいものです。連絡する上での期待値がまったく異なるのです。

 もちろん、なかなか会えない人と連絡を取る、という前提を共有していれば、SNSなりメールなりはお互いの期待通りに作用してくれます。しかしそれまでが会える前提でのやりとりだったものが、その前提がなくなってしまえば、急にバランスを欠いてしまうのです。

 その都市に実在しなくなって前提が崩れるほかに、離れた人にとっても情報のアンバランスさが顕在化します。それまで近く人住んでいて関わりうる友人たちの日常やイベントは、一気に関与が難しくなります。

 しかしタイムラインにはそれまで通りの情報が流れてきますが、都市を離れた受け手にとっては、情報をいくら見ていても、FOMOを感じる結果を招くことになります。結果として特にFacebookを開かないといった自衛策を講じ、FOMOの感覚が消えていくのを待つしかありません。

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