コンピューターで表計算ソフトを使えば、タテ・ヨコの集計計算があっという間にできる。いわば計算の天才になったようなものだ。プログラミングまではいかないが、グラフィック系のソフトを1つ覚えて人生を変えた人はたくさんいる。コンピューターが発生させる「全能感」(なんでも持って来い的できる感)は凄い。この全能感を人工的に演出しているのが「ビデオゲーム」だと考えてもよい。スーパーマリオブラザーズで、スーパーキノコを取った状態のようなものだ。
任天堂は、初期にポパイをキャラクターにしたゲームも作っていたが、ポパイのホウレン草もその気持ちよさを演出したものだ。ゲームやマンガの全能感は演出なので「ウソっこじゃん」と言うなかれ、人間の脳はワガママなので、この性質を応用する研究もさかんである。むしろ、デジタル化された社会では、実社会もゲームの中で暮らしているような方向に向かうだろう。
いまの中学生は、米国では「ジェネレーションZ」と呼ばれる世代に入る。いちばん新しい世代なのだが、この名前が象徴しているのは彼らがフルに活用しているネットやスマートフォンは20世紀の最後の遺物ではないかということだ。ブロックチェーンや量子コンピューターによって、人類はじまって以来常識だったものをも大きく覆される可能性がある。そんな時代の一大転換点をスペシャルラグジュアリーシートで堪能できるチケットは、自らその世界に飛び込むことだ。
テクノロジーの歴史とはそんなものだといわれればそのとおりなのだが(バターフィールドの『近代科学の誕生 上/下』を読むとよい)、人間の想像力というのはたいしたことはない。ドローン(UAS=無人航空機)を、空想科学を標榜するSF分野の作品は描いてこなかった。いまや誰でも買えるありふれた存在としてのドローンだ。さすがに、近年のオンラインゲーム(『Call of Duty 4: Advanced Warfare』など)では小型の多数のドローンが襲ってきたりするが、いまさらなんだよという感じではないか?
1990年代はじめ米国では情報スーパーハイウェイ構想が叫ばれ、ネットインフラが整備されればさまざまなことが可能になると言われた。コマースやオフショアやバーチャルユニバーシティやサプライチェーンマネジメントなどだ。ところが、当時、いまネットをドライブしているフェイスブックやユーチューブやグーグル検索に相当するものすらぼほ想定されていなかった(モバイルは注目されはじめていたしシェアリングエコノミーなどはネット以前の生産消費者に近いお話なのかもしれないが)。
ネットやデジタルの世界では、たった1人、あるいは数人の活動が本当に世界を変えることがある。なにもグーグルやアップルのような大企業にならなくてもいい。ソフトやハードウェアを世界に売り出していくためのしくみが整備されてきている。そのために特別なセンスや能力が必要なのか? アイデアさえあればいけるのか? いろんな話があるが、前提としてコンピューターのある世界に接することだ。
これこそ中学生たちに話すべきなのに、当日は、このシートを作り忘れて口頭になってしまった。ジョブズはコンピューターの天才でもなんでもないが、ウォズニアックという友だちがいた。コンピューターの世界は1人ではなくチームを組んでやるとうまくいくことが多い。ソフトウェア、ハードウェア、使いやすいデザイン、コンセプト、お金集めやプレゼンテーションなど、みんなが優等生である必要はない。お互いの得意・不得意を認めあって1つの目標をめざす。
結局、コンピューターやプログラミングで作るしくみは、それを使う人々のためにやっている。たとえば、同僚にエクセルのマクロを作ってあげるのでもいい。パスカルが、計算機械(パスカリーヌ=1645年)を作ったのは、徴税官だった父の仕事を楽にしてあげたいと思ったからだそうだ。元マイクロソフト会長で現在は慶應義塾大学大学院教授の古川享さんに、プログラミングに関するイベントに登壇いただいたら「身近にいる人がもうちょっと楽に、もうちょっと幸せに、という気持ち。それは僕らのこの仕事の原点だよね」と発言された。その延長にすべてのコンピューターがあるとしたら楽しいことだ。
いまどき「誰かの役に立つ」ということを実感できる仕事というのはそんなにあるのだろうか?
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