国内の”知の最前線”から、変革の先の起こり得る未来を伝えるアスキーエキスパート。ニコンの坪井聡一郎氏による技術とイノベーションについてのコラムをお届けします。
近年、機械学習とりわけディープラーニングの発達により人工知能分野への注目が日増しに強くなっている。シンギュラリティに向かって「まっしぐら」なのかどうかは別として、さまざまな産業が我先と利用法に知恵を出し合っている。中でも注目されているのが自動車産業における自動運転技術である。自動車に設置された様々な画像情報を自動的に処理し、将来的には運転手が不在でも走行できるようにしたいという夢のある技術である。
ちょうどこのコラムを認めている頃、「Uberがピッツバーグの公道で自動車の自動走行実験を行っていることを認めた」との報道があった。私もシリコンバレーを訪問した際、街中で普通に何らかの走行実験をしているグーグル・カー(Google Self-Driving Car)を度々目にすることがあった。また国内でも2015年10月にトヨタ自動車が高速道路上で車線変更などを行う自動運転実験車を公開し、更には本年5月にはウーバー・テクノロジーズに出資を決めた。自動車メーカー並びにその周辺産業までも巻き込み、上述技術の応用先分野として自動走行が大きく期待されていることが伺える。自動走行技術そのものに関する話は数多の学術書などに解説されており、私もその専門ではないので、ここではその内容には踏み込まない。このコラムでは、技術が生まれることで派生する世界を想像し、今後生じるビジネスの可能性について考えていきたいと思う。
「ヒューマンエラー」を超える
何らかの動作を人間から機械やロボットに代替させようと考えたとする。当たり前のことだが、人間より作業効率が落ちるようなら代替させることはできない。例えば、製品の組み立てラインのような場で人間が作業をしたら歩留まり90%になるような状況を、機械化によって限りなく100%に近づけていくのが「代替」の目的である。人間の場合、見落とし、うっかりなど過誤や失敗によって意図しない結果をもたらしてしまう、いわゆるミスというものが避けられない。こうした行為を「ヒューマンエラー」と呼ぶ(航空機のパイロットなどはヒューマンエラーを起こさないための様々な訓練を受けていることは有名である)。平たい言葉で言えば、機械化やロボット化へ向かう一つの判断基準は「人間以上かどうか」ということになる。
一般にコンテストなどで使われる画像(静止画像)で人間が判定を行った場合5%程度の誤認識があるそうだが、ディープラーニングの画像認識制度はすでにこれを超えている。つまり機械へ代替したほうが高い精度が見込まれる状況になってきたのである。昨年わが国の人工知能研究の第一人者である東京大学の松尾豊准教授の講演を聞いた際、「静止画の画像認識は人間の認識制度を上回ったこともあり、2015年以降世界の画像認識の研究は動画へシフトしている」とお話しをされていた。研究者のこうした動向をみると「人間がミスを生じる確率」を超えた精度に達した段階で、研究が次のフェーズへと移行していく。そしてこれに企業が追従し、シーズ技術の応用を目指し様々な産業で実用化に向けた本格的な投資が始まる。つまり産業として勃興していくには、「人間のミスの確率」=「ヒューマンエラー」を超えるかどうかが一つのメルクマールになると、私は考えている。
人間のミスが減ることによる変化
自動走行の技術開発は、人間がドライバーとして引き起こすヒューマンエラー(と、それにつながる事故)より、高い精度で安全な運転を行うことを目的としている。免許取り立ての段階から、徐々に経験を積むことで運転が上手くなっていく人間と異なり、自動運転自動車であればいきなりベテランの運転(あるいはそれ以上の運転)を可能にし、交通事故も当然に減るだろう。一般に高い技術開発の結果としてヒューマンエラーが減ることは良いこと尽くめのような印象がある。
しかし事故が減ることで影響を受ける業界もでてくる。よく議論されているのは、自動車保険の業界である。これまでは「人間の運転によって事故が起こることを前提」に高度な確率計算に基づいて保険商品が作られてきたが、これからは「人間が運転せず、あまり事故が起こらないことを前提」に商品が作られるとみられている。例えばドライバーのいない自動車であれば、自損事故の概念はどのようになるのか。「自損」とは簡単に言えば「自分(=ドライバー)に過失がある」ということである。ドライバーがいない自動走行中に生じた事故では「自動走行プログラムに起因する事故」となる。つまり、プログラムがドライバーの代わりとなる主体になる。人間のヒューマンエラーに基づく事故発生の確率計算とは異なる、プログラムが引き起こす事故の発生確率に基づいた新たな「事故発現モデル」に基づく商品開発へと変わっていくことになるだろう。
ビジネスモデルへ与える影響
もう一歩先に思考をめぐらしてみる。これまでは、主に自動車の所有者(もしくは運転が想定される人)が当該自動車へ保険をかけていた。すなわち人間がミスをする前提が置かれていた。しかしドライバーが関与せず、プログラムが引き起こす事故となる今後は、誰が保険を掛けるべきなのかという課題が生じる。1995年に施行された「製造物責任法」というものがメーカーには課されているが、プログラムによる事故となった場合それが製造物責任にあたる可能性もある。そうなると、これまで個人が負担していた自動車保険の代金を自動車メーカーが負担することも考えられ、お金の流れ、すなわちビジネスは全く違ったものになる。これまで個人を相手に販売していた保険業界のB to Cのビジネスモデルが、自動車メーカーへのB to Bへと変わってしまう可能性もある。
またこの他にも、A社の自動走行車とB社の自動走行車が事故を起こしたような場合は、状況はさらに複雑になる。両車の自動走行プログラムの差がおそらく責任負担の割合に影響するであろうがその差を一体誰が検証できるのであろうか。人間がドライバーとして運転していた時には保険会社が間に入って関係者への調整を図って保険金額や責任の割合を決めていたが、自動走行プログラムのデータはメーカーのノウハウとして非公開となれば保険会社が調整することもできず、その責任割合の判断は相当に難しくなるだろう。加えてディープラーニングにはプログラムの再現性が困難であるという課題も指摘されており、事故そのものの検証をどうやるのかという問題がついて回る。ここまでくると、これまで自動車業界と別に存在していた保険業界は、自動車会社が保険会社を所有する方が課題解決に良い状況になることも十分に考えられる。非公開データの取り扱いや独自技術から生じる事故の確率の計算を、自動車会社と資本関係を持つ保険会社が一緒に作っていくような未来になるのかもしれない。
派生業界への影響
先日、整骨院をしている知人が、「将来自動走行で事故が減ったら、ムチ打ち(頸椎捻挫)の患者さんが減ると思う。ムチ打ちなんかは自賠責保険から治療費が出るから、保険を当てにして経営している整骨院なんかは今後厳しくなると思う」と話してくれた。整骨院、接骨院についてWebで検索してみると「交通事故の対応」をうたい文句にしているところが多いことが分かる。一般に治療頻度が高くなる整骨院等での治療について、ケガをした人が保険会社との間で保険利用を巡って問題が生じることがあり、そうした煩わしさ対して「適正に対応する」ことをうたっているのである。整骨院の治療は、電気治療、手技治療、温熱治療、ストレッチ・運動などが主であり、その他に鍼灸治療(基本的に医師の同意書が必要)等がある。整形外科等で治療を受けても痛みが取れず通う人も多い。こうした保険から得られる収入は整骨院等の経営の一部を支えているため、仮に交通事故が減ることでケガ人が減れば経営が厳しくなるという冒頭の話へとつながるのである。
ディープラーニングを開発した人は、当初整骨院の経営にまで思いをはせることはなかったであろう。しかし新たな技術が生まれロボットや自動車に応用され、金融業界(保険業界)へ影響を与える可能性があり、そして交通事故によるケガを治療する業界にも及ぶ可能性を感じている人がいる。「風が吹けば桶屋が儲かる」ように感じる人もいるかもしれないが、イノベーションが派生する業界はずっと先にまで及ぶのだ。
本コラムはそんな技術やイノベーションの展開からなる未来を想像していきたい。
「ビジネスは、その先に」というタイトルには、そんな思いを込めている。
アスキーエキスパート筆者紹介─坪井聡一郎(つぼいそういちろう)
一橋大学大学院商学研究科修了。2004年株式会社ニコン入社。ブランディング、コミュニケーション、消費者調査、デジタルカメラのプロダクト・マネジャー等を歴任。2012年より新事業開発本部。2014年、国立研究開発法人農業・食品産業技術総合研究機構より「センシングによる農作物高付加価値化」の研究委託を受け、コンソーシアムの代表研究員を務めた。経産省主催の「始動Next Innovator2015」のシリコンバレー派遣メンバーであり、最終報告会の発表者5名にも選抜された。
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