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対談・Planetway平尾憲映CEO×ジャパン・リンク松本徹三社長 第1回

ソフトバンク元副社長が超小さな会社のために働くワケ

2017年09月05日 09時00分更新

 「世界を変えよう」と提言する男がいる。

 プラネットウェイはグローバルIoT事業を中心に利用できる個人情報プラットフォームを開発している米国、日本、エストニアに拠点を置くグローバルスタートアップだ。電子政府国家エストニアで15年間使われてきた行政インフラを世界で初めて民間転用した企業として、IoT業界や保険業界を中心に注目を集めている。

 同社代表 平尾憲映CEOのビジョンは大きく「世界を変えること」。平尾代表のもとには、壮大なビジョンに魅せられた有力者たちが次々に集まっている。

 第2回の対談相手は、ジャパン・リンク代表取締役 松本徹三社長。元ソフトバンク副社長も務めた経歴をもつ松本社長は、平尾氏とともにより効率的な太陽光発電に必要な半導体技開発会社スーパーシリコンテクノロジーズを立ち上げようとした間柄だ。まだ28歳の若さだった平尾代表の熱意に打たれ、故大見忠弘 元東北大学名誉教授の研究をもとに産学連携事業の創設を志したが、これはうまく行かなかった。しかし、それが縁で、現在、同氏は、同氏も「とても気があった」というエストニアの名だたる技術者と共に、プラネットウェイのアドバイザリーボードのメンバーに就任している。

 ソフトバンク元副社長が、なぜ創業後間もない、とても小さなスタートアップのために働こうとしているのだろうか?

Speaker:
プラネットウェイ 代表取締役CEO
平尾憲映

1983年生まれ。エンタメ、半導体、IoT分野で3度の起業と1度の会社清算を経験する。学生時代、米国にて宇宙工学、有機化学、マーケティングと多岐にわたる領域を学び、学生ベンチャーとしてハリウッド映画および家庭用ゲーム機向けコンテンツ制作会社の創業に従事。在学時に共同執筆したマーケィングペーパーを国際学会で発表。会社員時代には情報通信、ハードウェアなどの業界で数々の事業開発やデータ解析事業などに従事。

プラネットウェイ アドバイザリーボードメンバー
松本徹三

1940年生まれ。京都大学法学部を卒業後、伊藤忠商事 大阪本社に入社。アメリカ会社エレクトロニクス部長、東京本社の通信事業部長、マルチメディア事業部長、宇宙情報部門長代行などを歴任後、1996年に伊藤忠を退社して独立。コンサルタント業のジャパン・リンクを設立後、米クアルコム社の要請を受けてクアルコムジャパンを1998年に設立し、社長に就任。2005年には、同社会長 兼 米国本社Senior Vice Presidentに就任し、発展途上国向け新サービスの開拓などに取り組む。2006年9月にクアルコムを退社し、同年10月にソフトバンクモバイルの取締役副社長に就任、主として技術戦略、国際戦略などを担当。2011年6月からは取締役特別顧問になり、1年後に退社する。2013年11月に、休眠していたジャパン・リンクを復活させて、現在はソフトバンクを含む国内外の通信関連企業数社とのアドバイザリー契約がある。2013年から2年間、明治大学専門職大学院グローバル・ビジネス研究科の特別招聘教授も務めた。最近の著書に『AIが神になる日』(SBクリエイティブ、2017年7月)がある。

困難に取り組む姿勢を試された出会い

平尾 松本さんと出会ったのは私がソフトバンク入社2年目で、まだ28歳のときでしたね。東北大学の教授に会いに行く新幹線の中でした。大学と共同開発研究をするTLO型のスタートアップ「スーパーシリコンテクノロジーズ」*を作ろうとしていたときのことです。

*スーパーシリコンテクノロジーズ株式会社(SSTEC):東北大学と共同開発研究をするTLO(大学技術移転)型スタートアップ。 「ウルトラクリーンテクノロジー」でインテルにも高く評価された東北大学 名誉教授 大見忠弘氏(故人)、元キヤノン専務で日本知的財産のトップだった田中信義氏(故人)が技術面の責任をもち、松本徹三氏が奔走して資本金6億円を調達したが、しかし開発が思惑通りに進まず大学側の協力も不十分だった為に会社は清算を余儀なくされた。

松本 当時ソフトバンクモバイルに山口さんという、農業IoTやモバイルヘルスケア領域の新規事業を立ち上げている面白い男がいたんだよね。その山口さんから「平尾という若い奴が熱心にやっているんで助けてあげてよ」というので、一緒に東北大学に行ってみることにしたんですよ。まあ結果としては非常に残念なことになりましたけど、仕事で付き合っている間に感じた、あなたの印象は非常に強かったですよ。

平尾 どう強かったんでしょう?

松本 とにかく「ひたむき」だったですよね。怖いもの知らずで、危なっかしいところはあったけど、印象は非常によかったですよ。とにかく大きな仕事をしたいという意欲にあふれていた。そういう意欲がない人には仕事ができないですからね。ところで今は何歳になったの?

平尾 いま、34歳です。

松本 ぼくがいま77歳だから、43歳もちがうんだ。孫でもおかしくないんだね。

平尾 東北大学に行くときも「爺さんと孫みたいだな」と笑っていたのが記憶に残っています。

松本 43歳離れてても、精神年齢はほぼ一緒だったということかもね(笑)。あの地獄の様な2年半はあなたとペアでやったわけですね。

平尾 あれが原点というか、あれがなかったら今のぼくはなかったと思っています。今でもよくおぼえているんですけど、あのとき松本さんに「大見教授の書かれた300ページくらいの資料を6ページにまとめてこい」と言われたんですよね。

 エエーッと思ったんですけど、それから毎朝3時くらいに起きて、4時から9時くらいまで資料を読んで、3ヵ月くらいほぼ寝ずに形にまとめて持っていったんです。そうしたら松本さんから、「よくやったな」とものすごく痛い空手チョップをもらって(笑)。

 結局まとめたレポートは朱筆だらけで戻ってきたんですけど、そのとき「朱筆の数が多いほど、ピントは合っているという事なんだぞ」と言われたのがとても印象的でした。初めて「命をかけて仕事をする」ということがわかったように思えたんですよ。

松本 おぼえてますよ。資料は半導体の基礎技術を扱った、とても難しいものだった。ぼくはあなたを試したところがあったんですよ。「とても歯が立ちません」と正直に言ってきたらまぁ及第、ごまかしたら落第でした。正直言ってぼくは、まさかあなたがあの分厚い資料を本当に全部読むとは思っていなかったので少し驚きました。見たかったのは、自分には抱えきれないほどの困難な課題に、どういう姿勢で取り組むかということでした。

 いまの世の中、調子がいい人が多すぎるでしょう。「世界を変えますよ」なんて調子のいいことを言う人はたくさんいる。でも世界を変えようと思えば、結局は基本的には愚直に時間をかけて苦労するしかないんですよ。それで、彼のことは信頼できると思いました。頭が良いとか、よく理解してるとかは関係ないんですよ。姿勢です。

実の親は死んだと思え
代わりに松本さんを親と慕え

平尾 もうひとつ鮮明におぼえているのは、松本さんにぼくの両親に会っていただいたときのことです。

松本 「両親に会ってくれないか」と言われたので福井まで行ったよね。東尋坊を見たかったこともあったけど。

平尾 実家の福井で両親に会っていただいたとき、「ご両親にお会いして信頼感が増しました」と松本さんが言ってくれましたよね。それがうれしくて。あれ以来、母は完全に松本さんのファンになってますからね。

松本 むしろぼくがお母さんのファンですよ。人間というのはもって生まれた性格がありますからね。親御さんのお話を聞いていると見えないところが見えるところがあります。

平尾 そのときの両親の言葉が強烈だったんです。「実の親は死んだものと思え」と言われたんですよ。「代わりに松本さんを親と思って、命をかけてやっていけ」と。

松本 恐縮というか、とてもそんな役割はできませんけれどもね。平尾さんには、「とにかく大きな仕事をして、世の中を変えたい」という強烈な意欲があるし、じつは、僕自身にもそういうところが少しはあったので、そこは共感を持ったわけですよ。

平尾 うれしいです。

松本 ご両親も、一人息子がそんな意欲をもっているなら成就させてあげたいという気持ちがあったんじゃないですか。そこで誰か力を貸してくれる人がいたら親と思えと。しかし、それがぼくには大変なプレッシャーだったんですよ。ぼくは通信と情報産業のことはある程度よくわかっていたけど、半導体のことはあまり分からなかったので、自分自身がものすごく勉強しなきゃいけなかった。70歳を過ぎて勉強するんだから、本当に大変だったけど、なんとなくあなたの"気迫"に押されてね。「これはやらなきゃいけないな」という気持ちになったものですよ。

平尾 松本さんにプラネットウェイに入ってもらって、一番ありがたいのは圧倒的な経験です。いまプラネットウェイには、20代前半のインターンの方から、50代のベテランの方まで幅広い年代の方々に入ってもらっているんですが、その方たちにも、松本さんの経験を教えてもらいたいなと思っているんです。 (つづく)

(提供:プラネットウェイ)

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