週刊アスキー

  • Facebookアイコン
  • Twitterアイコン
  • RSSフィード

小野ほりでいの暮らせない手帖|悪口や毒舌について

2015年05月31日 18時00分更新

文● 小野ほりでい(イラストも筆者) 編集●ヨシダ記者

小野ほりでい
『オモコロ』や『トゥギャッチ』などのサイトでイラスト入りのコラムを連載中。特に『トゥギャッチ』の連載に登場するエリコちゃんとミカ先輩はネットの人気者。

暮らせない手帖1027

 悪口だとか毒舌というのは会話のカードが尽きた者が使う切り札で、そればかり連発するのは人として内容がないからに他ならない。私がそうなのだから間違いない。

 一時期はこれが嫌で「今日こそは悪口を言わない」と決心してから人に会うこともあった。しかし、色んなことに興味を持ち、色んなことをしている他人と会話しているとしだいに自分という人間のつまらなさに耐えられなくなり、中毒患者のように泣く泣く苛烈な言葉に手を出すはめになってしまうのだった。以前の個性の話にも繋がるが、知識や経験のバックグラウンドなしにいきなり面白い話をしようとすれば極端な言葉に頼らざるを得なくなり、結果として何かを否定することをユーモアとはき違えたようなたちの悪い物言いに走ってしまうのだ。こんなふうにして取る笑いは概して失笑に違わず、自覚の有無にかかわらずただの道化なのである。

 私はこういう、人として内容がないので苛烈なことばに頼らざるを得なくなっている人たちを仲間だと思っているので、代わりに弁解させていただくが、彼らは概して弱い。だいたいが罵詈雑言というのは防衛のためになされるものだからだ。弱い人が自分を守るために毒舌を自称しているという構造は知っておけば苛立ちこそ軽減されるかもしれないが、笑えなくもなってしまう。毒舌の人間の毒舌に対する反応は同族嫌悪に発する怒りか、同類を自覚したうえでの憐憫だけである。

 自分で自分のことは分かりにくいものだが、私の知っている人でああ、この人こそが他人から見た私自身なのかもしれない、と貴重な勉強をさせてくれた人物がいる。

 彼は口が悪く、いつも冗談のていで何かを悪く言っているのだが、自分ではそれが冗談だと分かってもらえるつもりでいるわりに、だいたいの人にはそう取ってもらえず、嫌われたり恐れられたりしている面がある。この食い違いがどこから生まれるのかというと、彼が彼自身をかわいいと思っていることである。冷静に考えて口の悪い成人男性がかわいい筈がないのだが、まさかかわいい自分が恐れられるとは思っていないので、きつい冗談を言ってしまうのだ。彼にとっての悪口はきついことを言っても許して貰えるかわいい自分、という周りに甘やかされた環境の確認でもある。

 嫌なやつには種類があって、純粋な「ただの嫌なやつ」は少ない。よく見れば、こういう「自分と自分像のギャップ」に由来するトボけた嫌なやつもいるのだ。だから許してくれとは言わないが知っておけば気が楽になるかもしれない。

 


※本記事は週刊アスキー5/26号(5月12日発売)の記事を転載したものです。

この記事をシェアしよう

週刊アスキーの最新情報を購読しよう