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小野ほりでいの暮らせない手帖|はしゃぐことを求められる場面

2015年05月24日 18時00分更新

文● 小野ほりでい(イラストも筆者) 編集●ヨシダ記者

小野ほりでい
『オモコロ』や『トゥギャッチ』などのサイトでイラスト入りのコラムを連載中。特に『トゥギャッチ』の連載に登場するエリコちゃんとミカ先輩はネットの人気者。

暮らせない手帖1027

 観光地なんかで、他人にカメラを託されて「撮ってください」と言われる展開が苦手すぎて、なるべくカメラの使い方がわからなそうな顔をして生きている。それでも一度だけ頼まれたことがあって、内々に燃える炎のような緊張を隠しながら恐る恐るシャッターを切った記憶がある。

 友達どうしで私の地元に旅行に来ていたらしきその女性たちにデジタルカメラを渡し、写りを確認してもらっている間は、執行を待つ死刑囚のような重い気分だった。彼女らは写真を見て問題ないというふうに言って去っていったが、私はもしかしたら自分がとんでもなく間違った撮り方をしていて、気付かないうちに人間性が反映された恐ろしくいびつな写真が撮れ、彼女らも表面では礼を言いつつその写真の気色悪さに戦慄しているという想像すらした。冷静に考えれば撮った写真に人間としての欠陥が反映されることなどないのだが、私は陰で笑われるとか特異に思われることに対して病的な恐怖を抱いてしまうことがある。

 その他にも、自分で「ここは絶対に正しくやらなければならない」と感じたときに恐怖で何もできなくなってしまうことがある。自分が欲するようにやるのではなくて、「他人たち」という絶対的なジャッジのもとで欠陥のない適切な人間として対応することのハードルの高さに足がすくんでしまう。大勢の人間という公正な価値観に晒されながら自分という人間を演じることができる人を見ると、それだけで憧れてしまう。

 同様の理由で、はしゃぐことを求められる場面もとても苦手だ。カメラを向けられてふざけた格好をするように求められる場面とか、全員が盛り上がっている状況の中で盛り上がりの一員としての役割分担を求められる場面である。たとえばカラオケなんて、はしゃいでいない時間の全てを「お前はなぜはしゃがないのだ」と詰められている気分になってたまらない。恥ずかしさを振りきっておどけたことをするのが正解だと思ってはいるのだが、自分で勝手に、ではなく求められてはしゃぐ場面ではどうしても「お前はそんな人間ではないだろう」と自意識に後ろから肩を叩かれてしまうのだ。そんな無理しなくてもいい、と人は言うが私は無邪気にはしゃげる人間になりたい。とてもなりたい。

 ふざけるな、と言われて真面目くさった顔をするのは簡単なことだ。しかし、「ふざけろ」と言われて度を越さず適度にふざけるのはとてもむつかしい。こういうことをそつなくこなすのが私の思うところの「真人間」であり、それこそが私の人生の最終目標なのだ。

 


※本記事は週刊アスキー5/12-19号(4月28日発売)の記事を転載したものです。

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