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小野ほりでいの暮らせない手帖|個性的になるということ

2015年05月17日 18時00分更新

文● 小野ほりでい(イラストも筆者) 編集●ヨシダ記者

小野ほりでい
『オモコロ』や『トゥギャッチ』などのサイトでイラスト入りのコラムを連載中。特に『トゥギャッチ』の連載に登場するエリコちゃんとミカ先輩はネットの人気者。

暮らせない手帖1026

 私は精神年齢がそこで止まってしまっているのでどうしても過去に対する回想はそのあたりからになってしまうのだが、とにかく学生時代、私は気付いたら微妙な立場になっていた。友達は少なく、すこぶる冴えず、明るくて屈託のない人たちを羨みながら、しかしそうなるために努力するという発想は全くなかった。そして、そういう人の多くがそうするように、自分は特別だと周りを見下し、個性というよくわからないものにすがるようになった。

 しかし、その道を行けばかならずぶち当たる事実なのだが、世の中には何の特徴もないのに個性的になろうとする人間は山ほどいて、その中でどう類型化から逃れようとしても既にその逃れ方が類型化されているのだ。さらに悪いことに、楽をして個性的になろうとする浅ましい根性で勉強や地道な努力を避けてきた私たちが、いきなり近道をして個性的になろうとしても何のバックグラウンドもないため、極端や開き直りに頼らざるを得ず、結果としての姿形が似通ってしまう。そして最終的には、ただの没個性よりよっぽどおぞましい、「個性的になりたい人がよくやるステレオタイプの特別さ」を気付かずに演出してしまうのだ。

 結局は、個性的になるということも私たちが属する社会やコミュニティと変わらない、地道な努力や競争を必要とするヒエラルキーを有しているということなのだろう。だが、どうして個性的になるために努力なんてしなければならないのだろうか。そもそも私たちにとって個性なんていうものは「どうせ幸せになれないなら」というついでの精神で手に入れようとしていたものに過ぎないのだから、同じ努力をするのだったら幸せになるためにした方がよっぽど有益ではないか。私たちがそのことに気付いて普通に幸せになろうとしたときには、すでに最初からそう考えていた人たちから大きな差をつけられているのである。神よ!

 幸せになりたければ個性を捨てればよい。個性というのはほとんど捨てるためにあるようなものだ。個性的であるということがかならず不幸を意味するのは、すなわちその人が個性を捨てるに値する何かを見つけられなかったということを意味するからだ。己が何者であるかという問題の答えは己の中になく、いくら考えても堂々巡りを起こすばかりだ。そういった疑問はいつも、疑問を抱える者たちの頭ごと吹き飛ばすような生というものの暴虐によって解決されてきた。だから、個性的でい続けるためには生から逃げ続けなければならない。それには生きる以上の覚悟が必要なのである。

 


※本記事は週刊アスキー5/5号(4月21日発売)の記事を転載したものです。

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