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天下一カウボーイ大会実行委員会
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第参回天下一カウボーイ大会
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天下一カウボーイ大会とは
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第参回のテーマ「Code is Love」に込められた思いとは?
日本のコンピュータ業界は、どこから来て、どこへ行くのか?
清水亮が古川享(慶應義塾大学教授)、遠藤諭(アスキー総合研究所所長)を迎え、熱く語る!

 
鼎談清水:ありがとうございます。今日は、天下一カウボーイ大会では恒例になりつつある鼎談にお付き合いいただきます。

古川:ちょっと恥ずかしくて聞けなかったんだけど、「天下一」って、あのラーメン屋の「天下一」からきているわけではない?

遠藤:アスキーのあった青山の骨董通りに「天下一」っていうラーメン屋があったんですよ。

古川:なつかしい。僕らがそれこそソフトウェアビジネスを立ち上げたアスキーラボラトリーズから一番近いところが「天下一」で、プログラマー時代にはそこで三食食べていたんですよ。

清水:そうなんですか!縁起のいい名前でよかった。今回のテーマは「Code is Love」ということなので、今までと、そしてこれからという感じで、そのころの熱いエピソードも含めてお話願えればと思っています。

 
スター・ウォーズの時代
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鼎談2清水:僕たちの世代からすると、古川さんは雲の上の人、というイメージで、あまりプログラムを書いているイメージはないんですよね。

古川:うーん、そうなんですか。でも、ごくごく初期には1日18時間コードを書いてた、みたいな時代がありましたよ。それこそ、アスキー・ラボラトリーズ時代に骨董通りのマンションで私自身がプログラミングしていた時にはそうでした。79年から81年かな。その頃はね、BIOSを書いてました。

清水:BIOS。Basic Input/Output System。

古川:そう。CP/M-80のドライバを書いていて、当時のNEC、富士通、沖電気、シャープのBIOSは全て、僕を含めて4人で書いていましたね。その中に中島聡(注1)くんがいて。

清水:中島さんはでも当時はまだ学生ですよね?

古川:早稲田の高校から理工学部へ入った頃だったかな。ちょうどPC-8001が出る前後だったけど、当時から天才的なものの作り方をしていたよね。CP/Mって、Control program for Micro Prosessorの略で、本格的なOSじゃないから。ただ普通にシリアルポートにキーボード繋いでワープロ入力をやってるぐらいだったらいいんだけど、入力スピードが速くなったりするとプリントするサブルーチン、キーボードをスキャンするサブルーチン、画面を描画するサブルーチンと処理の同期が取れなくなって、キー入力しても画面に文字が表示されなかったりするわけ。入出力をポーリング処理してるとね。

清水:ああ、なるほど。

古川:そんなものじゃ使い物にならないねって言って何をやったかと言うと、20KBくらいでマイクロカーネル作って、そのマイクロカーネルの下にディスプレイのタスクや、シリアルポートのタスク、キーボードのタスクをぶら下げて、同じ重さでアプリケーションとOSを一つのタスクとして、それ以外のデバイスのドライバはマルチタスクカーネル直轄で回す、なんてことを中島さんは平気でやっていて。

清水:モダンな設計ですね。

古川:自分が得意としていたのは、金物を動かす部分。具体的には5MBで60万円とかそういうHDDを最初に1台買ってきて、それの中に新聞のイメージを入れて新聞をスキャンしてデータアーカイブ化して、高速で画面の中にパッパッと表示したりする、そんなデモをやったりとか。メカ系のステッピングモーターを制御してプリンタを駆動するとか、そういうドライバー系を動かすっていう部分。そういうのはだいたい僕がやっていた。
だから、当時僕らはBIOSを書いていたんだけど、実はマルチタスクモニタとカーネルと、そこらへんで格闘しながら、いかに賢くバンクメモリによるメモリマネジメントするか、効率のいいドライバを書くかっていうようなことを、みんな、はりきってやってたね。

清水:なるほど。

鼎談3古川:よく話に出るんだけど、当時はアルバイトの人には、時給以外に、いいプロダクトを出してくれた人にはきっちりロイヤリティ(売上金額の何%かを成功報酬として原著作者に支払う方式)を払っていたんだよね。これは日本で初めてだったかもしれない。それは、その当時の郡司社長から経理の人まで、みんな、「いい営業成果と利益を挙げてくれたらそういうお金の払い方でかまわないよ」って言ってくれたと。それは多分、アスキーが出版社だったという背景も大きくて。もの書きの人にちゃんと印税を払って当たり前だから、そういう常識が、ソフトウェア・パブリシャーとしてあったんだと思う。

清水:ああー、なるほど。

古川:そういう中で出てきたのがCANDYというソフト。

清水:CADソフトですね。

古川:そうそう、あれもね、8255のパラレルポートから引っ張ってくるマイクロソフトマウスのデータをPC-9801の画面上に矢印(カーソルポインタ)が出てきて、X-Y上のカウンタ・パルスが取れる、というドライバのサンプルソースコードを中島さんに渡したら、3日後にはほぼCANDYの原形が出来てた。

清水:ええー!!

古川:3点を指定するとベジェ曲線をヒュッ!と書いたりね、マルチレイヤーの描画データ重ねて扱えたり。それから、クルマを側面から見たドローイングがあって、ある点をズームするとちゃんとハエが止まってる絵になるとかさ(笑)

清水:(笑)すごいですね。

古川:もちろんそれからメニューの構成を変えたり、いろいろ製品化へむけて修正の作業は入るんだけどね。とにかくそんな風に、0からモノを創るスピード感っていうのは、すごいものがあって、あの頃アスキーに居たアルバイトの人たちは、日ごろの仕事として原稿を書いたり、記事用の図版として画面写真を撮ってソースリストを作ったりしてるわけだけど、その隙間隙間で創造的な活動に関わってきたときに、とんでもないエネルギーで何かを発明しちゃうっていう瞬間があって。その子たちがものすごい刺激になったよね。
当時の会社のスタッフも、自分たちは手取り10万円以下の給与で毎月仕事をしていても、彼らがプロダクトで稼いだ2億とか3億円とかの売上からロイヤリティを支払ってもいい、とそういうビジネス権限を個々の社員にゆだねてくれたり、というのもあったし。もう少し大きなセグメントで言うと、それぞれの事業部で成果があったら、それぞれの事業部で貢献した人にプロフィットシェアリングとして分配しても構わない。そこらへんのビジネスの仕組みや事業部制による柔軟性と事業部長に対する権限移譲も、アスキーと言うのは非常に挑戦的な会社だったね。

鼎談4清水:うーん、すごい話ですね。

古川:あの頃はとんでもないことがあって、たまたま夜中にシアトルのIBMPC開発ルームに入る機会があったんだけど、そこでintelの開発マシンIntellec mdsがつながってガーッと試作機が動いている。で、待てよと。半年待てば、20~30万も払えば、IBM-PCが手に入る。この開発マシンを先に買っておいたらどうかというと、日本での価格は3000万円以上するわけさ。

清水:(笑)

古川:でもその半年間と言うのは、単にリードタイムが半年と言うことだけじゃなく、他の競争相手を決定的に引き離す半年間なわけだ。

遠藤:8086の開発キット。

古川:8086の5MHzクロック、128Kbのメインメモリに、フロッピーは8インチで256Kb が2機、5Mbのハードディスク・プラッターが2枚(固定5MbにリムーバブルHDが5Mb)付いて10Mbだった。ハードディスクは洗濯機ほどの大きさ。画面は80文字x24行の英文字のみの白黒スクリーン。このマシンを当時、他に買ったのは東大と電総研くらいで、アスキーに持ち込んでもらうときに「エレベーターがないところに運び込んだのは初めてです」って言われて駐車場で木箱をばらして搬入した。今だったら、3万円以下で手に入るよね、

遠藤:(笑)

古川:でも「その半年間に若い連中に触らせて、発売されるときには86系のプログラミング技術はreadyの状態にしておきたいんです」って言ってそれをアスキーの社長郡司さんに認めてもらえたのはほんとに面白かった。で、そんなときに電通大から新入社員が入ってきて、彼はずっと68000をやってたから、「86なんてやりたくない」って言うわけ。でもその半年間なにをやろうかと考えたときに、OSを作ってもゲームを作っても仕方ない。で、誰がどんなものを作りたくなってもガリガリかけるように、86系インストラクションの勉強をしっかりやろう、と言うことになったんだよね。で、彼の入社3日目に「68000はしばらく忘れろ」と。「8086を理解するために、コンパイラを1本作りなさい」って言って、半年ほっといたんだよね。
 
鼎談遠藤:その8086の開発ツールってよくできててですね。アセンブラのマクロがBNFみたいな記述だったんですよねぇ。あのときにパソコン触るのと開発キット触るのは、吸収できるものは結構差があったんじゃないですかね?

古川:PL/MとM86ASMのことだね。それから、MSXやMS-DOSのイメージに隠れてあまり知られてないんだけど、UNIXの日本語化って言うのはアスキーが核になってやってた時代があって。SONYのNWSワークステーションもDECのKANJI ULTRIXもTRONの開発時に松下の中央研究所で使っていたUNIXも、東大の計算機センターに納入されたVAXで稼働していたUNIXも、実はアスキーが日本語化したBSD版 UNIXなんだよね。

清水:うーん、そうなんですか。

遠藤:UNIXの話で言うと、あるとき77年の創刊からの20年分くらいの月刊アスキーの全ページをめくってみたことがあったのですよ。そのときに、81年の2月号に、これは誰が書いたか誰に聞いても判らないんだけど、「これからのマイコンのOSはUNIXで決まりだ」という内容の3ページ記事があったのです。81年だから、まだDOSもない時代ですよね。BASICとか、そういう時代。なぜUNIXかって理由が書いてあって、マルチタスクがあるとか、仮想記憶が使えるとか、マルチユーザーであるとか、セキュリティがどうとか、箇条書きになっている。マイクロソフト自身も当時すでにXENIXをやっていたのですね。そろそろ、16ビットや32ビットという声も出てきていた。Z8000用ではもうXENIXが動いているとか、8086や68000用にも開発しているとか、ちょっとリークっぽい記事なわけです。説得力もあるし、8ビットのCP/Mのコテコテの時代から脱却して、これから新しいコンピュータの時代が始まるんだみたいなことが書いてある。ところが、その年の秋にIBM PCが出てくるわけですよ(笑)。そういうような時代の境目的なタイミングですよね。

鼎談x古川:ちょうど開発環境も整ったところだったし、僕らはUNIXベースで開発をやろうと。僕らはやっぱり自由にソースコードにアクセスできるUNIX、Xenixのほうが面白いね、っていうグループがいたの。あの時僕らの考え方としては、目の前のメシのためには、CP/MのBIOS開発や、PC-8001、8801のゲームソフトの書籍をやろうと。それと、仕事としてはMS-DOSをマイクロソフトの代理店として売らなきゃいけないんだけど、自分たちの未来にかける研究、投資の対象としては、やっぱりUNIXだよねって、みんな使い分けてた。
普通はね、何かで儲けて、何かに突っ込んでってやるときに、一つのものでやるじゃない。でもそれじゃ面白くない、と。いくつかのフェーズが同時に回っていて、お前がCP/Mで稼いでくれるから、俺はUNIX使って研究開発ができる、ありがとうねというような、目の前の泥臭い仕事から、将来への投資まで、全部同時並行的に回ってたんだよね。「スター・ウォーズ」のストーリー展開ってさ、過去や未来がメリーゴーラウンドみたいにぐるぐる回りながら進むじゃない。当時のアスキーではそれがおきてるような感じだった。
 
(注1) 中島聡
現UIEvolutionチーフアーキテクト。マイクロソフト時代にはWindows95、Windows98、Internet Explorer 3.0/4.0等のチーフアーキテクトを務めた。
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