週刊アスキー

  • Facebookアイコン
  • Twitterアイコン
  • RSSフィード

パナソニック次期社長に楠見氏、過去にDIGAやdボタンの開発も

2020年11月16日 09時00分更新

過去にはDIGAやdボタンの開発に携わる

 楠見次期社長は、1965年1月22日、奈良県出身の55歳。

 1989年3月に、京都大学大学院工学部を卒業後、同年4月に松下電器産業(現パナソニック)に入社。ソフトウェアの開発者として従事し、日本独自の放送規格である「dボタン」の実現にも携わった。

 「dボタンは、企画とソフトウェア開発の立場で関わった。初めて深く携わったものであり、店頭に並んだ商品を見に行った。店員が、dボタンの実演を行い、それを見た来店客が『すごい』と言ったことに、涙が出た思い出がある」という。

 また、ハードディスクレコーダー「DIGA」(ディーガ)の第1号機の開発は津賀社長が担当していたが、同2号機では、楠見社長が開発に携わったという。

 「DIGAでは、開発費がかかるシステムLSIで、ひとつの品種を長く使いながら、数年に渡る機能拡張をしながら、開発費を適正に抑えて、事業を継続するという体験をした」と振り返るほか、「専用システムLSIにより、コンパクトで、収益性が高いブルーレイディーガを開発することができた。技術開発によって、競争力が高いものへと仕上げていく過程を経験した」と振り返った。

 2002年には、ヨーロッパ松下電器パナソニック欧州R&Dセンター所長、2004年には、パナソニックAVCネットワークス社蓄積デバイス事業・アライアンス推進室長、2008年にはコーポレートR&D戦略室長兼産学連携推進センター所長、2012年にAVCネットワークス社次世代プラットフォーム開発センター所長に就任。2012年にAVCネットワークス社AVネットワーク事業グループテレビビジネスユニット長、2013年には同テレビ事業部長を経て、2014年に役員に就任し、アプライアンス社上席副社長、ホームエンターテインメント・ビューティ・リビング事業担当兼ホームエンターテインメント事業部長を務めた。

 「津賀氏の大方針のもと、プラズマディスプレイ事業を止めたのは、大きな赤字であったこと、将来、4K化したときに輝度が落ちて不利になることが理由だった。だが、プラズマをやってきた技術者たちは、強い思いを持っていた。同じ自発光の有機ELに移行することになったが、なかなか有機ELが市場に出てこなかったため、パネルメーカーの協力を得て、プラズマ画質に匹敵する液晶テレビを市場に投入することになった」などと述べた。

 楠見氏は、2014年のTechnicsブランドの復活にも尽力。音作りにも積極的に参加していたという。関係者によると、楠見氏は、ジェーン・モンハイトやダイアナ・クラールといったジャズボーカリストの楽曲などを通じて、Technicsの音を検証していたという。

 2015年には、アプライアンス社副社長、ホームアプライアンス&エンターテインメント事業担当兼ホームエンターテインメント事業部長、2017年には、アプライアンス社副社長、テレビ・イメージング事業担当、メジャーアプライアンス事業担当を務め、2018年には、オートモーティブ&インダストリアルシステムズ社副社長、三洋電機二次電池事業部長に就任。2018年にはオートモーティブ&インダストリアルシステムズ社副社長、三洋電機オートモーティブエナジー事業部長に就き、2019年4月に、現在の常務執行役員、オートモーティブセグメント担当、オートモーティブ社 社長に就任した。

この記事をシェアしよう

週刊アスキーの最新情報を購読しよう

この連載の記事