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ディープラーニングでインフルエンザ診断技術の飛躍を狙うアイリス

インフルエンザ検査の限界をAIで突破する新しい医療機器

2018年10月04日 08時00分更新

文● 村田望/OriHime 編集●北島幹雄/ASCII STARTUP

99%の正確な値を叩き出すインフルエンザの診断方法が論文で発表されても、ほかの医師が同レベルの診断をするには、長い経験が求められていた。だがAIを使ってその問題を解消し、医師の診断を支援する医療機器の開発が進んでいる。

 もしインフルエンザ診断における数十年レベルの経験を持った超専門家レベルの医師の知見をすべての医者が持てたら医療はどのように変わるのか? そんな世界をAIで実現しようとしているスタートアップがある。

 2017年に設立されたアイリス株式会社は、病院や医師向けの人工知能技術(AI)関連の医療機器を作成しようとしている企業だ。AIのテクノロジーを用いて、医師の診察技術・その人だけが持つ匠の技術を、ほかの医師でも再現できるように、医療機器のデバイスを開発しようとしている。

 同社の製品開発第1弾となるのが「インフルエンザの新しい検査法」だ。医療機器として承認を予定している同デバイスは、インフルエンザの診断用にAIを搭載したデジタルカメラで、口の中を撮影し判定する。

アイリス代表取締役の沖山翔氏

 「風邪やインフルエンザなどの病気は喉が腫れるが、腫れ方のパターンは病気それぞれに違いがある。数十年経験のあるプロの医師なら体感できている違いも、そういった診察の感覚は言語化やコツの伝達が難しい。結果として他の医師には真似ができず、その道一筋の医師だけがもつ特殊技能に留まってしまう」

 アイリス代表取締役の沖山翔氏は、このように語る。沖山代表は最近では珍しくない、医師資格を持った起業家だ。東京大学の医学部を卒業後、救命救急医・ドクターヘリ・離島での医師や医療関連ベンチャーを経て、2017年にアイリス株式会社を起ち上げた。

ディープラーニングでインフルエンザ診断技術の飛躍を狙う

 では、どのようにしてインフルエンザを判定するのか?

 「手法としてはディープラーニングを活用する。沢山の画像に対して『猫』というラベルを付けて学習させると、猫の画像をアルゴリズムが見分けられるようになる。同様に、インフルエンザにかかった患者の喉の写真を集めて、画像に『インフルエンザ』タグを埋め込み、もう一方で『インフルではない』と診断された画像も設定する。これらを収集し学習させることで、インフルエンザの喉をAIが判別できるようになる」

 2018年の冬にデータ収集を行ない、治験を経て、国からの承認には更におよそ1年を要する。そのため実際に製品として認められるのは2020年以降となる。

 平行してアイリスでは、口腔内の撮影に必要なカメラも開発している。懸念となるのは、画像を集め、治験をして、さらに国の承認を受けるまでに1年かかる点だ。それから保険に収載されて、ようやく世の中で使われるようになる。リリースまでは長期におよぶが、「病院の中で使われないことには医療を変えられないので、医療機器として承認を得るのは必須」だと、沖山氏は話す。

 もちろん、インフルエンザ検査を選んだことにも理由がある。きっかけは、日本人医師・宮本昭彦氏による「インフルエンザ濾胞」についての論文だ。

 「濾胞」とは、疾患時、のどの粘膜に出てくる腫れものを指す。風邪でも濾胞は出るし、そもそも病気でなくても元から濾胞が見える人がいる。だが宮本医師は濾胞のツヤ・テカリ・大きさ・色の明るさなどからインフルエンザを判断できると発表した。論文では、宮本氏の診察であれば、99%の確率でインフルエンザを診断できるとされていた。

 「患者さんが鼻に綿棒を入れて痛い思いをするインフルエンザの検査精度は、6割程度。また、発症から病院に24時間以内に行った場合、検査の精度が十分に上がらずに、翌日再度受診するよう指示されるケースもある。この現状は医師としても心が痛いところ」(沖山氏)

 そのような一般的な見方だけでなく、インフルエンザを選んだところには、沖山氏自身のキャリアも関係している。

医療における暗黙知をAIで見える化する試み

 「私自身、インフルエンザの患者さんを救急で診ることが多かった。夜間外来・土日外来であわせてインフルエンザ疑いの患者さんだけで1000人ほどを診ていた。救急外来の混雑から、1時間に10人の患者さんを診察しなければとなると、1人に対面でかけられる時間は2、3分程度。あたかも自分が患者さんを“右から左に処理”しているような錯覚に陥り、既存検査の精度が高くないことの説明も満足にできていなかった。そんな時期に、宮本先生のインフルエンザ濾胞の論文と出会い、今でも忘れられない出来事だった」(沖山氏)

 だが、論文に書いてある方法をやろうとしても、実際の臨床の現場では経験が不足しており、おいそれとマネができるものではなかったようだ。「自分が宮本先生レベルの技術を身に着けるには20年はかかると実感してしまった」

 優れた医師の持つ技術は、ある分野に特化した極めて高度な技術を持つ職人のそれと似ている。そのような診断技術は我々の目の前にあるが、実際に習得するには多くの年月がかかる暗黙知となってしまっている。沖山氏によると、そこには「言語化できる知識」と「言語化できない知識」があるという。だが、「匠の技とAI」を駆使することで、今の医療の限界を突破できるのではないか。

 暗黙知を解決するきっかけとなったのは、ディープラーニングの元となる仕組みである「ニューラルネットワークの発明」にある。ニューラルネットワークは人間の脳を模した仕組みで、この研究が発展したことで、写真などの画像データを認識し学習できるようになった。データを集めて得た、画像の形・質感・ふち・色の情報を組み合わせて、抽象的な概念を表現できる。インフルエンザ濾胞の画像認識においても、それが活用されている。

 「インフルエンザ濾胞の色はマゼンタ色だが、均一な単一色ではなくグラデーション。これをニューラルネットワークは、比喩表現ではなく、チップの中に実情報として入れられる。人間の脳はコピー&ペーストできないが、この匠の技をAIに覚えこませてカメラに搭載できれば、宮本先生の目と脳を引き継いでいるのと同じで、ほかの医師であってもインフルエンザの診断が可能になる」

 まずはインフルエンザの課題解決から取り組むが、これは最終ゴールではない。

 「医療は専門分野それぞれに匠がいる。しかし、修行を積むのは、ほかの分野を切り捨てることとセットになる。ある分野で100点になることはほかの分野で0点を選ぶこと。一方で救急医などは10の分野で10点をとる選択をしなければならず、広く浅くならざるを得ない。どの病気の患者さんが来ても、自分が100%のプロではないのがもどかしい。

 生きるか死ぬかの状況で運ばれてくる中に、専門技術があれば救えたであろう人が、顔を思い出せるくらいの記憶として頭に残っている。これは重い体験で、翌日必死にその分野を勉強するが、それでもすべての病気を、広くかつ深く専門的にカバーできないジレンマを救急医はみんな抱えている。技術があれば、救えたかもしれない。その歯がゆさは、匠の技をほかの人と共有できれば何とかなるはず」

医師の協力が必須となるスタートアップ

アイリス株式会社

 ここまでの説明のみであれば、カメラハードとAIの仕組みがあれば、もっと早く実現していてもおかしくはない取り組みにも見える。では、なぜ今までできなかったのか。

 「データ収集は、病院と共同研究契約を結んで臨床研究をしているが、患者さんへ研究内容の説明をして同意書を得て治験する。それを数千回繰り返さなければならない。だからこそ誰もやってこなかったが、そこに価値がある。

 さらに、会社のコアメンバーに医師が必要であるために未着手だった点もあるのではないか。技術をもった開発者と、医学の知見をもった医師が、密接な距離にいることが必要。過去の開発事例では、企業の顧問医師に週1回ほどヒアリングをするのが相場だった。それに対し、毎日同じ空間で仕事をし、ランチに行き、Slackで1日数百メッセージのやりとりをするのでは、共有される情報の深さが違う。医師と企業が、一心同体にならないと、できないこともあると思う」

 アイリスはあくまで、AIのスタートアップではなく、医療課題を解決するスタートアップであると沖山氏は強調する。医療機器としてのカメラやAIは使うが、目指すところは異なる。インフルエンザ診断技術もあくまで同社が考える数あるソリューションの1つでしかない。

 「特定の技術格差は、AIで埋められると思っていて、囲碁がAIによって一気に強くなれるのと同じように、医療でも役立てられる部分がある。2000年前の医師だったヒポクラテスの格言に『Art is long life is short.』というものがある。アイリスの名前は、この格言の頭文字からきている。医術の修練には時間がかかるけれど、人生は短い。医術の奥深さは変わらなくても、医術をマスターするのに長い時間がかからないようにしていきたい。匠の技術は将来的にリセットされてしまうが、AIで残せれば、匠の技術を持つ医師が亡くなったとしても、その人の脳をソフトウェアに残せる。さらにアドオンしていってロストテクノロジーにならず次世代に残っていく」

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